第二章:家族

第15話 隣家ーヨメー

 今日のおやつはドーナッツ。

「もぐもぐ」

 テーブルの前で四歳の男の子がドーナッツを、にっこりほっこり顔で、ほうばっていた。

 くりっとした目に元気そうな顔立ち、ヒーローがプリンとされた長袖シャツに長ズボン姿で子供用椅子に座っている。

 一個まるごとかじらず、小さくちぎって口に運んではしっかり噛むのを忘れない。

 食べる度に思う。

 どうしてあんパンには穴がないのにドーナッツは穴があるんだろう? 

 穴の中に元は、なにがあったの?

 なんて疑問、食べ終えた時にはドーナッツ共々消えていた。

「ぷふぁ~」

 プラスチックコップに注がれた牛乳をコクコク音を立てて飲んでは父親のマネして大きな息を吐く。口周りに生まれた白いヒゲを手の甲で拭うのも抜かりない。子供は親の行動をよく見ているものだ。

「もう、ゆーくん、おとーさんのマネなんかしてだらしないよ」

 対面して座る一〇歳の少女は、男の子の光景に吐息一つ。

 肩を越えるほどある水に濡れたような黒髪。年齢相応の可憐さはあろうと大人びた瞳。シワ一つないワンピーススカートが気高さを醸し出している。

 机の上にペーパーノートやテキストを広げて、課題をしている。

 普段はタブレットなのだが、弟の動画見せてとせがんでくる勉強妨害の対策だった。

 鉛筆を休ませず走らせる一方、テーブル下にある足先はソワソワとどこか落ち着きがない。

「え~だらしないのは、ゆーねえだよ?」

 男の子は口に少女が口にくわえたドーナッツを指摘していた。

 その手は課題を解く一方、ドーナッツを租借している。

「わたくしは、もぐ、いいの。モゴ、両手が塞がっていますから」

「いつもならちぎってたべるのにさ。まあ、こー」

「ん?」

「なんでもないよ~だ」

 男の子は追加の指摘をしたくも、少女の深い笑顔に目線反らしてごまかしていた。かすかにだが身体は震えている。

 日頃穏和で優しく、本の読み聞かせや、文字の書き方を教えてくれる姉の鑑だが、とある相手絡みだと人が変わる。

 男の子曰く、にゃんこだけど、時々空腹ライオンと、天気予報のように例えていた。

 すぐ側で洗濯物を畳む母親の香子かおるこは、子供二人の光景に自然と笑みをこぼしている。

「まあ霧が出たから山小屋で一時的に避難していると連絡があったからね。そこで一晩泊まって今日の夕方には帰ってくるわよ」

「もうどうして、わたくしではなく家にかけてくるの!」

「あなたはその時間、塾だったでしょう?」

 指摘された女の子は、ドーナッツを口にくわえたまま言いよどむ。

 男の子からの視線をごまかすように、ドーナッツを口に押し込んではもごもごとリスのように頬を膨らませて咀嚼していた。

 固定電話が鳴ったのはその時だ。

「はいはい、今出ますね」

 男の子は固定電話に向かう母親に小首を傾げていた。

 受話器を取らないとお話しできないのに、どうしてわざわざ声をかけるのだろう。謎である。すまーとふぉんという、どこでもお話できる便利なものがあるのに、お話しかできないのは不思議だ。

「はい、千野せんのです。え、ええ、お隣ですけど。はい、はい」

 元気よく電話に出た母親であるが、表情が徐々に曇っていく。

 子供二人が察して顔を見合わせるのは当然のこと。

 男の子にいたずら心が芽生えるのも当然のこと。

 対面する相手に向けて、男の子は小さな手で、自分の顔を横に、ぐにゅ~と引っ張った。

「ぐふひゅ!」

 唐突な変顔攻撃に、女の子は咀嚼中のドーナッツでむせてしまう。

 口内から飛び出す愚は避けられたが、しばらく咳は止まらない。

「もうなにやってるの」

 電話中だろうと母親は見かねて男の子を注意する。

 男の子は注意されようと、空になったコップを口につけながら露骨に目線を逸らしている。

 顔つきや性格からして父親似だが、誤魔化し方まで父親似の息子に母親は将来が若干不安となる。

「おしおき!」

 不安を抱く母親を横に、咳から回復した少女が動く。

 テーブルの下に身を沈ませれば、男の子の真横に飛び出しては、その小顔を両手で掴んで、ぐにゅ~と引っ張った。

「んぐううう~!」

「ぐにゅ~!」

 男の子もやらっぱなしかと手を伸ばして少女の頬を掴んでは伸ばしていた。

 どちらも顔を引っ張る気はあっても身を引く気はない。

 子供二人いれば、どの家庭でも起こり得る一進一退の攻防劇が繰り広げられる。

「二人とも、いい加減にしなさい!」

 母親からの雷が落ちるのは必然だった。

 実際に落ちたのはチョップであるが、互いをつかみ合う手を強制的に引き離していた。

「ぐううっ!」

「ぶうっ!」

 子供二人、介入した母親に抗議の涙目を向けている。

 日頃は聡明な子たちなのだが、こればかりは年相応である。

 一安心か、不安か、親心は複雑だ。

「ケンカしない!」

 しかし相手は家庭内最強の母親。子供二人でかなうはずがなく、渋々さを目に宿しながら停戦協定が目線で結ばれる。

「失礼しました。それで、もう一度、お伺いしたいのですが、ケガは? ええ、当人は無事と、はい、ええ、分かりました。大丈夫です。すぐは無理ですが、夕方までに向かいます」

 母親は通話を終え、ゆっくり受話器を戻す。

 そのまま冷戦という睨み合いを起こす子供二人の前で膝を落として言った。

「ゆーちゃん、ゆーくん、お母さんが今から言うことを慌てずに最後までしっかり聞いて欲しいの」

 真剣な母親の眼差しに、子供二人は互いに顔を見合わせてから揃って頷いた。

「紘真くんがね、下山中に遭難者を見つけてね、今、長野の警察にいるの」

 嘉賀紘真は隣人の高校生である。

 亡き祖父の影響か、休日となれば登山やソロキャンプに出かけるアウトドアな子だ。

 かといって出先でやるのは、バードウォッチでも渓流釣りでもなく、レトロゲームのインドアである。

 当人曰く、ネット環境のない自然の中で、ネット環境を必要としない携帯ゲームを、のんびり楽しみたいときた。

 アウトドアでインドアな趣味を持つ子供。

 昨日は日帰り登山の予定で県外の山へと朝早くから出かけていたが、道中で濃霧に阻まれ、山小屋で一泊すると昼頃、連絡があった。

 両家同士、交流が深く、今は亡き彼の祖父は二人の子供を実の孫のようにかわいがってくれた。

 一方で隣家の者として、今回の登山先が先なので不安はある。

 子供二人は紘真を慕っている。一方は兄として、もう一方は。

「こーにいが!」

「うそ、コーマが!」

 子供二人が肩を跳ね上げて驚き、両目を見開いている。

「だから、お母さん、紘真くんを迎えに行かないといけないの」

 本来なら隣のご両親がすべきことだが、運悪く二人揃って休日を挟んだ出張である。

 眼下の問題は二つ。この子たちである。旦那が帰宅するのはまだまだ先。連れて行くか、預けるか、一人は、これから塾があるため問題ないが、紘真絡みであるため不安は拭えない。

「「いく!」」

 先のケンカはどこに行ったやら、母親の不安を的中させるように子供二人は仲良く声を揃えてきた。

「ゆーちゃん、あなたはこれから塾でしょう?」

 西東京にあるこの住宅街から長野まで高速道路を使っても片道で三時間はかかる。

 往復すれば六時間、帰宅する頃には塾の授業は終わっている。

「いや、行く! 行くったら行くの! 旦那を迎えに行くの!」

 起こるべくして起こる少女の癇癪に母親は目尻すら抑えない。

 半ば予測できたことだとしても、こればかりは親として手を焼いていた。

「まーたーはじまったーあー」

 一方で男の子は冷ややかな目で呆れていた。

 ゆーちゃんこと千野汐香ゆうか※一〇歳、顔立ち性格は落ち着き可憐、学習意欲が非常に高く、時間を挟んでは難関中学の問題を解いてしまうほど。駆けっこだってクラスどころか学年で一番速い。かといって気取ることも他者を見下すこともない。常に相手の目を見てゆっくり話せば、困っている人がいれば率先して行動する。

 欠点のない人間と思われているが、実際は一つだけ欠点がある。

 それは紘真絡みとなれば、年相応なわがまま癇癪を起こすこと。夏の終わり、道に落ちている蝉セミファイナルのごとく手足をジタバタ動かすのは恒例行事だ。

 ゆーくんこと千野勇磨せんのゆうま※四歳が、紘真を実の兄のように慕う一方、汐香は兄ではなく一人の男、それも未来の旦那として慕っている。

 それは一〇年前、紘真に命を助けられのが背景にあった。

 以来、紘真の未来の嫁と自己紹介する高すぎる自己肯定の誕生である。

「だから、あなたはこれから塾があるでしょう?」

「いやーです! 未来の旦那の安否を確かめるためにもわたくしは行かないといけません! 警察は別件で抑えておいて、本命で逮捕させるのですよ! わたくしとの仲のせいでコーマは今頃!」

 頭と舌の回る子に、親としてため息より涙が出そうだが、親だから泣き言すら出さない。

 確かに警察に厄介となったのは一度や二度ではない。

 高校生が小学生を連れ歩いていると、通報されたのは数えるのを止めている。

 未成人である。一〇歳児である。男女交際は親としては成人してからでも遅くはないと思っている。

 せっかちすぎるのだ。聡明さも、その点も似ているのは否定できない。

 誰かに穫られるのが不安なのだろう。

 実際、紘真が高校の同級生と一緒にいる光景を目撃すれば、浮気は許さぬと突撃して妻だと公言するほどだから頭が痛い。

 顔も性格も良い紘真に浮いた話が一つもない原因であった。

「おかーさん、どうするのー?」

 娘とは対照的に息子は引っ張られることなく落ち着いていた。

 反面教師として姉の姿を間近で見てきたからか、四歳児とは思えぬほど落ち着きがあった。

「仕方ないわね」

 こうなれば親として折れるしかない。

 もう少し厳しく接したいが、かわいい子供の前では、ついつい甘さが出てしまうのは親としての宿業か。

 もし父親がこの場にいても、行き着く先は同じだろう。

 双方共々、子供に甘いなと自嘲してしまう。

「迎えに行ったらすぐ塾に行くこと。いいわね!」

「すぐ準備してきます!」

 言うか早いか、先までの癇癪が一瞬で鎮まった。

 全身を使ってバネのように跳ね上がれば、塾の教材が詰まった鞄を取りに二階へと駆け上がっていく。

「あんなおとなにならないようにしないと」

 自戒するように、うんうんと頷く息子に、母親は本当に我が子かと別の意味で頭を抱えてしまった。

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