第5話 山小屋ーアンシンー
男が銃を降ろしたタイミングで紘真は話しかけた。
「クマ、ですか?」
「……だろうな。ちぃ、霧の中から虎視眈々と狙っていたようだ」
クマの癖してトラなマネを、と男はグチる。
「あなたがいなかったら、今頃、俺はクマのご飯だったのか」
過去の出来事を思い出した紘真は、無意識のまま右手で左腕を握りしめる。
動物園でのんびり過ごすクマを見て、大抵の人はノロマだと印象を多く抱く。
だが、見かけの巨体を裏切る俊敏さで襲ってくる。
ツキノワグマの瞬間速度は時速五〇キロ。
一般飼い猫が平均時速四〇キロであるのを比較して、一〇〇キロ超えの巨体が猫と同スピードで突撃してくると考量すれば脅威でしかない。
「ここにいても危険だ。ついて来な坊主。安心して休める場所に案内するぜ」
男から嘘は感じられない。
紘真は無言で頷き返しては、リュックをすぐさま背負う。
男の後に続く形で、濃霧立ちこめる山道を歩き出した。
位置感覚が麻痺する濃霧の中、男に迷うそぶりはない。
それは男の半歩先を進む犬の存在が大きかった。
時折、立ち止まって地面の匂いを嗅いでは、ひと吠えして進み、また嗅いでは進むを繰り返す。霧のせいで獣の足跡は発見しずらい。視界不良ならばこそ、嗅覚で霧の中を迷わず進んでいる。
「クマは一度、獲物と定めると執拗に追跡してきますからね」
「お、詳しいな」
男の声は嬉しそうに眉根を跳ね上げる弾みがある。
「恥ずかしながら、小さい頃、クマに追いかけられたことがあるんで」
「坊主、よく生きてたな」
男は紘真に驚き顔で振り返っていた。
「祖父がズドーンと一発撃ったお陰で助かりました」
「そうか、いいじいさんだな。おおっと自己紹介がまだだったわ」
男は今更だと振り向いたまま、苦笑いしながら名乗った。
「俺は
「えっと嘉賀紘真です。東京で高校生やってます」
「ちなみに犬の名前はミチザネだ。気むずかしい性格だが信頼できる相棒だ」
「わんっ!」
犬ミチザネは振り向き際、吠える。自分の紹介だと気づいて吠えて返すなど頭が良いようだ。
「ミチザネ?」
「おうよ。ほれ、太宰府の菅原道真って知ってるだろう? 学問の神様の」
「ええ、福岡にある神社の。知ってます。福岡生まれだから、ですか?」
「いんや、単にこいつの母親が梅の木の下で、こいつを生んだから、梅にあやかってミチザネと名付けただけさ」
「あ~飛び梅か」
紘真は妙に納得できてしまった。
飛び梅は福岡県太宰府、太宰府天満宮にある梅の木だ。
今では学問の神様として祀られ、受験シーズンとなれば神頼みに多くの受験生が訪れる観光名所。
京都から追放された菅原道真を追って、遠路はるばる飛んできた伝説がある。
ただ勘違いされやすいが、最初降り立った地は天満宮ではなく、
紘真が単に詳しいのは、単に母親が福岡出身で話を聞いたからだ。
「昔、家にいた猟犬がクロベエって言うんですけど、親が黒部、ほら、富山県にある黒部ダムのある地域の生まれだから、祖父がクロベエって名付けたんです」
「がっはははっ、名付けなんて安直なもんさ。下手にこりにこって呼びにくくすれば意味がねえからな(クロベエ、どっかで聞いた名前だな)」
野太い笑い声が濃霧に響こうと、紘真は不快と感じない。
濃霧の重さを吹き飛ばす爽快さがある。
要は頼りになる大人ということだ。
「昔ここら辺の山は、霧の出る夜は入ってはならねえって戒めがあったんだがな。山道にライトが整備されたから、日の出のご来光目的で夜に登るのがぼちぼち増えてきたもんだ」
「暗闇と濃霧のダブルコンボで危険だからですよね。祖父も絶対に霧の出る夜は山に入るなって度々口にしていましたし」
「おうよ、ただでさえ真っ暗で先が見えねえ。ライトがあっても霧が光を吸い込んで方向感覚を狂わせてくる。だから地元の人間はなにがあっても霧の夜山には入らねえ。坊主、半年前、この山で起こった事件は知っているか?」
「ええ、ニュースになったので覚えています」
紘真は目尻と声音に緊張を乗せて返す。
「動画配信中に三人が行方不明になった事件ですね。今も、見つかっていないと」
チクリと紘真の胸が痛む。
配信者とは縁もゆかりもないが、夜山に踏み込んだ理由が、無関係ではないため他人事と言えないからだ。
「警察の話じゃ、霧と暗闇で足を滑らせ滑落したか、霧に潜んだクマに襲われたかって話だ。まあ可能性として前者が高かろうな」
何度か探索が行われようと、痕跡すら発見できずにいた。
高山に該当せぬ山であろうと、大あり小あり崖や谷がある。
警察の見解では配信されていた動画に悲鳴がないこと、忽然と消えていることから滑落を有力視していた。
「坊主、お前さんも変わってんな。行方不明者三人も出た山に一人で登りに来るなんて」
「個人的な事情で、この山に来たかったんで」
言葉を濁しかける紘真。唾を飲む込むように本音を飲み込んでは、もっともな理由を言った。
「この山は、今は亡き祖父との思い出の山なんです。小さい頃は中腹にあるキャンプ場に祖父と二人でキャンプに来ていました」
「そうかい」
短く返す本田の目は、霞であろうと何かを察したような目だと紘真は気づく。
祖父が狩猟の際、獣の心理や動作を見切った場数にて培われた目と同じだ。
だろうと、紘真は本来の登山理由を打ち明ける気はなかった。
「もうそろそろだぞ」
紘真は紙のマップを取り出し、コンパスで現在地を確認する。
霧で詳細な現在地は不明だが、避難小屋から算出して、西に西にと移動していた。
電子化の進んだこのご時世、あえてアナログツールを使用しているのは、万が一を想定してだ。
デジタルツールは内蔵電力で稼働する。よって電力切れとなれば使用できず、水濡れ、破損もまたしかり。紙は電力を必要とせず、濡れようと乾かせば再使用できる。どのツールも便利である反面、不便さがコインの裏表のように不可分として存在していた。
「轍?」
紘真が山道とは異なる道に踏み入れたと気づいたのは、靴裏から伝わる砂利の感触だった。
濃霧の中、目を凝らして見れば、砂利にて舗装された道が霧の奥に続いている。
砂利よりむき出しとなる一対の線は土であり、車両の移動にて刻まれた轍だ。
ただ同時に疑問を抱く。この近辺に人が休める場所などあったかと。あるならば登山マップに濃霧用の避難小屋のように記載されているはずだ。
「今日は確か、いるはずだったよな」
本田は野太い首で小首を傾げながら霧の中を進む。
轍刻まれた砂利道を猟犬の先導で進んでいく。
「お、今日はいるようだな」
歩くこと二〇分、霧の奥底よりぼんやりとした明かりが漏れ出ている。
「こんなところに山小屋があったなんて」
近づいて確かめれば木組みの平屋であった。
明かりの正体は玄関ランプだ。
家は下手なバンガローより大きく、幅も広い。お金持ちの別荘と言われても疑わないだろう。
「お~い、
本田は、ドンドンと遠慮呵責なくドアをノックしている。
ただ野太い腕から放たれるノックは、紘真からすればパンチにしか見えない。
「ん?」
ドアは何度も殴打されようと中からの返答はない。
ふと紘真は、背後から人の気配とタバコの匂いを感じ、咄嗟に振り向いた。
だが、気配と匂いがあろうと、網膜に映るのは濃霧のみだ。
「どこ見てとんのじゃ小僧」
すぐ眼下から、しわがれようと元気が弾む老婆の声がした。
目に付いたのは赤いはんてん、次に白髪、最後にしわだらけの女性の顔であった。
腰は真っ直ぐ曲がらず。目測でおおよそ一五〇センチ程度。いや下手すれば未満かと脳内推論するが口には出さない。
「本田さん~」
ノック続ける本田を紘真は呼びかける。
本田は振り返るなり、紘真の隣に立つ人物にノックを止めた。
「なんだよ、外にいたのならメモ書きぐらいしといてくれよ。ま~た外でタバコ吸ってたな、年齢考えろよ、長生きできねえぜ?」
「やかましいわ。お前だってタバコ吸っとるじゃろうて、わたしがわたしの敷地内で留守にするのも一服するのも自由じゃろう。後、毎回言うがのう、もう少し声縮めんかい。わたしゃ目も耳もピンピンしとるから、お前の野太い声は鼓膜に響いて痛いんじゃよ」
悪態つきながら老婆は玄関ドアの鍵を開ける。
玄関先に腰を下ろすことなく、立ったまま履いていた長靴を苦もなく脱いでいた。
「えっと、本田さん。この人は?」
「あ~
安心して休める場所は山小屋であった。
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