第4話 猟師ーカイコウー

 元は同じ羽虫だった。

 あの羽虫には口がなかった。

 この羽虫には口があった。

 あの羽虫には羽があっても空を飛べなかった。

 この羽虫には羽があって空を飛べた。

 あの羽虫は一〇日しか生きられなかった。

 この羽虫は一〇日以上も生きていた。

 あの羽虫は食事を必要としなかった。

 この羽虫は食事を必要とした。

 あの羽虫は卵を一〇〇生んだ。

 この羽虫は卵を一つ生んだ。

 あの羽虫が産んだ子は一五〇メートルの糸を出した。

 この羽虫が産んだ子は一五〇〇メートルの糸を出した。


 この羽虫は危険だ。

 危険だが、品種改良の末に退化した種が、どう進化するか。

 その先を知りたくなった。


 嘉賀紘真かがこうまは目を覚ました。

 黒髪黒瞳の少年は瞼を開くなり、無意識のまま左腕を右手で掴む。

 あれから一〇年、赤子を抱えて走った男の子は高校生となっていた。

 幼き面影は当になく、端正に整った顔立ちとなっている。

 クラス内でも顔立ちから話題にあがろうとも恋人と呼べる相手は――いない。残念にも。

「やっべ、寝ちまった」

 眠気から唐突に目覚めた戸惑いが襲う。

 現状を確認しようと、左腕から右手を離しながら周囲を見渡した。

 まず視界に入ってきたのは木組みの壁。上を見上げれば二メートルもない天井、右を見れば四角い口を開けた扉のない出入り口。外は真っ白な霧に覆われ、文字通り五里霧中で先を見渡せない。

 紘真は一人登山の最中、霧が出たことで近くにあった避難小屋に避難したのを思い出す。

「霧鷹山、一〇年ぶりか」

 思い出すように山の名を口にした。

 長野県にある標高二〇〇〇メートルほどある山の一つ。

 飛騨高山と比較して、標高は低く、初心者でもゆったりと登ることができる。

 中腹にはキャンプ場があり、夏期となれば訪れる人々は多い。

 ただ、この山、夜となれば濃い霧が張る山として知られていた。

 よって、万が一霧に遭遇した場合、一時避難用の避難小屋が山道の各所に設置されている。

 といっても中は備え付け木造ベンチがある簡易な作り。

 一〇人は余裕で座れようと、小屋内には紘真一人しかいない。

 背負ったザックを下ろしてベンチに腰掛けて、一安心後、脱力までの記憶はあった。

「ぬかったな。この時期は霧が出るのは朝方のはずなんだけど」

 山の天気を舐めるなと、今は亡き祖父の言葉を思い出す。

 一〇月のこの日、温暖化の影響か、秋を飛ばして夏から冬に移り変わる環境が多かろうと、この近辺は比較的穏やかな気候となっている。

 暑くもなく寒くもない。紅葉色づきつつある山は絶好の登山日寄りであるはずが、足を止めるのは紅葉ではなく濃霧ときた。

「まだまだ経験が足りないか」

 ぼやきながら装備を確認することにした。

 まず温度差が生じる山の環境に対応した登山用ウェア上下セット。アルバイトして購入した黄色のウェアだ。乾きやすく、動きやすい。黄色だから山の中で目立つ。色だけではなくウェアは登山先の環境に合わせて保温性、防風性、防水性を選ぶ必要がある。

 標高が一〇〇メートルあがるごとに気温は約〇,六度下がり、唐突な雨や風さえ吹き付けてくる。

 都会ならばコンビニなど、近くの建物に避難すればよかろうと、山中に都合のよい建物はない。

 服が雨や汗で濡れれば、体温が奪われる低体温症を引き起こし命を落とす危険がある。

 現在、紘真の足を止めている霧は、大気中に水蒸気が細かな水滴となって立ちこめた自然現象。

 防水性のない衣服で山中を出歩こうならば、衣服が霧の水分を吸い込み、体温を低下させてしまう。

 次にシューズだ。人の手が入った山道だろうと、アスファルトで舗装された道ではない。凹凸あり、泥あり、石あり、コケあり、野生動物の糞ありと安全な道はない。また登り降りするからこそ滑りに強い靴底を選ぶ必要がある。体温低下を防ぐにも防水性や保温性が高いのもまた。

「さて、どうするかな」

 ザックの中身を確認する紘真の独り言は、霧に吸い込まれた。

 先を見通せない霧だからこそ、迂闊に進めば遭難する危険性がある。よく知った山道だから進もうと、下手をすれば正規のルートから外れて、崖から足を踏み外す事故さえ起こす。

 霧が立ちこめた矢先、近くに避難小屋が設置されていたのは幸運だった。

「一〇年か、ようやく来れたけど、長いようで早いよな」

 独白するように過去を思い返しては、またしても無意識が右手に左腕を掴ませる。

 カッと霧の奥より小石を蹴り飛ばす音がすれば、本能が紘真の眉根を警戒で跳ね上げさせる。

 人か、クマか、あるいはカモシカか。

 人が踏み入れられる区域だろうと、人が安心して暮らせる区画ではない。

 ここはもう野生動物の生存領域である。

 登山客ならば霧が晴れるまでの話し相手になれる。

 クマならば、晩ご飯化はお断り。

 カモシカならば、写真を一枚撮影したい。滅多に会えぬ特別天然記念物だ。家族に良い土産話となる。

 足音が大きくなる。つまりは近づいている証拠だが、記憶に覚えのある足音だろうと景真は警戒を緩めない。

「はっはっはっ!」

 霧の中に一つの影が動いている。四つ足で山道を歩く全身真っ黒な犬だ。犬は舌を出しながら山道を闊歩すれば、鼻先を避難小屋に向けて後方に一吠え、そのまま小屋の前までやってきた。

「飼い犬、じゃないな、こいつ猟犬か」

 かつて祖父の飼っていた犬が猟犬だったからこそ、紘真は直感的に飼い犬ではないことを見抜いた。

 犬種からして秋田犬だろう。秋田犬は日本犬の一種であり、国の天然記念物に指定されている。古くから番犬や狩猟犬として飼育されてきた犬だ。ただ黒毛は珍しい。

 性格は飼い主に忠実である一方、見知ら人間や他犬に対する攻撃性が強い。体毛は耐寒能力に優れ、高い身体能力を持つ犬だ。

「こんにちは」

「わん!」

 山での挨拶は大事だ。紘真が挨拶すれば犬は元気よく吠えて返す。返事を返した人間は見知らぬはずだが、律儀に返す辺り義理堅い性格をしているようだ。きっと飼い主のしつけが行き届いているのだろう。

「おう、人がいたか?」

 霧の奥より野太い男の声がする。

 声がした方向に顔を向ければ、霧をかき分けるように一人の男が現れる。

 紘真は現れた男の姿に両目見開いた。

 まず目につくは霧の中でも確かに目立つ蛍光オレンジのチョッキ、着込む服は周囲の森林に擬態する迷彩柄と相反する色合い。

 野太い身体、顔つきもクマと見間違えるほど太く、頭髪は茂みと錯覚させるほど茂り、口周りに生えるヒゲもまた濃い。ただ目つきには愛嬌さが感じられた。

 右肩には細長いケースを抱え、直感的に猟銃が収納されていると実体験から看破する。

「こ、こんにちは」

 男の足下で犬がしっぽを振っている。飼い主で間違いないだろう。

 だから紘真は恐れることなく挨拶した。

「おう、こんにちは。避難中か? それとも遭難中か?」

「前者の避難中です」

 野太い声だが、嫌いではない。山に慣れた頼もしい声だ。声もだが、履き物を見れば分かる。山には狩りに入ったのだろう。その履き物は長靴でも登山靴でもない。山足袋と呼ぶ建築作業などで履く靴の一種だ。つま先が二股に別れ、軽く動きやすい。特に

見るのは靴裏。恐らくだが靴裏は強化ゴムで固めているはずだ。加工痕が、祖父の施していた靴と同じだからだ。

 強化ゴムで固めていれば、グリップが効くだけでなく、釘を万が一踏んでも貫通することはない。

 一瞬の行動、刹那の判断が生死を分かつからこそ、足まわりを軽く、靴裏にグリップを効かす加工は命を繋ぐ効果を発揮する。

 獲物と対峙して足を滑らせ、半歩遅れて逆に狩られた、なんて祖父の猟師仲間から、よく目撃される話だ。

「この時期に霧が出るのは珍しいからな。まあ避難小屋にたどり着けたのは運がいい」

 男は手持ちぶさたにと、犬の頭部を撫でている。

 舌を出しながら尻尾を振り回す犬は癒しだ。

 紘真は意を決して、背負うケースを見ながら男に聞いていた。

「クマ、出たんですか?」

「いんや、今日はイノシシだ。だがな、この霧でさっぱりときた。坊主、避難していて正解だったな」

 坊主と呼ばれようと別段、不快さなど紘真は抱かなかった。

 むしろ、山男だからこそ似合う発言だと受け入れてしまった。

「ぐるるるっ!」

 ふと、先ほどまで尻尾を振っていた犬が、犬歯を剥き出しに唸りだした。

 クマが近づいているのか、警戒するが足音一つ、枝葉を踏む音一つしない。

 霧による異様なまでの静寂が、鼓膜に響く。耳鳴りがする。どこか身体が重く感じる。

 気づけば男は肩に担いだケースを開封、右手で持った銃をくの字に展開したと思えば、開いている左手でベルトについているショットシェルホルダーと呼ぶ弾帯から銃弾を掴み、映画の一コマのように素早く装填、右方向へと猟銃を構えている。

 二段水平式の散弾銃。ただ銃の知識には疎いため、紘真には分からない。祖父が猟銃を持っていたが、種類までは教えてくれなかったし、当時の紘真も深く聞こうとしなかった。

「坊主、伏せていろ」

 過去の光景が重なり、紘真は頭を抑えながら地に伏せていた。

 誤射を避けるため、獲物を確認するまでは銃への装填は法律で禁じられている。

 霧による視界不良の中、男が伏せろと告げる辺り、周囲の状況はよろしくないようだ。

 いや、もしかしたら、獲物がいると猟師としての経験で分かっているのかもしれない。

 実際、犬は犬歯を剥き出しで、うなり声を止めず、今にも霧の奥に飛びかからんとしている。だが飼い主の男に目で縫い留められ、ただ唸り続けるだけだ。

「……ちぃ、離れたか」

 男が重い声で猟銃を下ろした時には、紘真から耳鳴りも身体の重さも消えていた。

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