第6話 老婆ーダイカー

「如何にも、わたしが芝浦勝美だよ。それで、本田の小僧、こんなクソ霧の中、ま~た迷子連れてきて。ここは託児所じゃねえって何度言ったら分かるんだい?」

 芝浦の目尻は老いを感じさせぬほど鋭く、不機嫌に染まっている。

 その目の鋭さに萎縮せずとも苦笑する本田は、両手併せて頼み込んできた。

「そういうなよ。困った時はお互い様だろう? この前、穫れたてシメたてのカモ持ってきたじゃないか。霧が晴れる時まででいいからさ、いさせてやってくれよ」

 二人の関係を紘真は知らないが、互いに知らない仲ではないようだ。

 老婆は、一瞬だけ息を吐いた。諦観の念を感じた。

「はぁん、こら、そこの小僧」

「え、お、俺?」

 困惑気味に紘真は問い返すが、老婆からは呆れた目をされた。

「他に誰がいるっての。霧の中で遭難して、行方不明者が追加されたら迷惑なんよ。ほれ、突っ立ってないで家の中に入りな」

 口は悪そうだが、根は悪くなさそうだと紘真は直感した。

 亡き祖父も口は少し悪いが、根は甘かった人故の経験だった。

「あ~もちろん、無論、タダで休めるとは思わないこったな」

 担がれたか、と内心舌打ちした紘真は、本田と芝浦を交互に見やる。

 迷った人間を案内する。案内し山小屋で休ませる。休憩料を取る選択肢のない商売をしているのか、疑心が暗鬼を生む。

 しかしと思考を正反対に切り替えた。

(本田さんのメリットないじゃん)

 いわぬが花、沈黙は金を紘真は選んだ。

「んじゃ坊主、霧が晴れたら山を降りるんだぞ。道があるからって外に出るんじゃねえぞ。いいな、外に出るなよ」

「わんっ!」

 本田は再三念押してくる。場数にて培われた経験からの助言なのだろう。犬一匹も連れていない一人登山の紘真にとって霧の中での下山はリスクが高い。言うだけ言った本田は犬のミチザネを連れて来た道を引き返す。

「あ、はい、ありがとうございました!」

「な~に、山では助け合いだ」

 遠ざかる足音、霧の奥より確かな野太い返事が来た。

「あやつめ、まだ探しておるのか」

 背後から老婆の嘆息した声を紘真は聞いた気がした。

 振り返ろうと当人は既に玄関ドアを通っている。

「ほれ、小童、ボサ~っと突っ立ってないで、とっとと入りな」

「はい、おじゃまします」

「荷物はそこ、上着はハンガーにかけときな。後、頭の先から靴の先までしっかりと泥やら虫をはたき落とすのを忘れるんじゃないよ」

 老婆は手慣れた口調と指先で、あれこれ紘真に指示を出す。

 部室にあるタイプのロッカーが並んで配置されている。

 お邪魔する身、反発することなく紘真は指示通りに荷物や衣服を収納していく。

 特に衣服のチェックは室内に足を踏み入れるなら重大だ。

 衣服にマダニや山ヒルが付着していた、なんて珍しくなく、口器(牙)を皮膚に立てられ、血が吸われているのもザラ。特に血を吸われている最中ならば、引き抜かず医療機関で治療を受ける必要がある。

 特にマダニ。無理に引き抜けばマダニの体液が体内に流入、一部が残って傷口となり化膿する。

 ただの虫刺されだと放置しようならば、症状やダニの種類によるが、最悪死亡する恐れもあった。

「お、徹底してる」

 荷物置きや上着入れのロッカーの中には、しっかりと虫除けが設置されていた。

「スリッパ履いたら、これに氏名住所、連絡先を書いときな」

 用意されていたスリッパを履けば、老婆から指さされた方向には台の上に一冊のノートが置かれている。

 見れば、過去の利用者だろうか。日付ごとに氏名や連絡先が記入されていた。日付を遡れば年始めから利用者がおり、中には本田の名前も確認できた。

 ペンを手に記入する紘真の気分は、旅館で記帳するようで少し興奮してしまった。

「あえて聞くが入山届けはしとるか?」

「しっかり出してます」

 記入を終えた紘真は顔を上げてはっきり返す。

 入山届けは登山計画書のことを指す。

 文字通り、この山に入る日程、メンバー、ルート、持参する装備と登山計画を警察などの第三者に知らせるため提出するものだ。

 富士山や日本アルプスのような山岳地帯においては、届け出が義務化されている。

 行楽だろうと仕事だろうと山では何が起こるか分からない。

 山道から外れて道に迷った。足を滑らせて崖から落ちた。クマやイノシシなどの獣に襲われ負傷した。また予定時間になろうと下山してこないなど、起こり得るトラブル。

 いつどこで誰がと万が一遭難は判明した際、身元や人数、装備を把握できているか、できていないかでリスクを洗い流し、救助される可能性を底上げできる。

 当然だが、登山計画書に虚偽の記載は己を自滅に陥らせるため、絶対に行ってはならない。

 計画書に沿って救助活動が行われる故、記載された山と異なる山にいた場合、来るべきは救助ではなく、あの世への死神である。

「スマホは持っとるな? なら届け先に連絡しときな。居間の壁にWi-Fiのゲストパスが張ってあるから、そこから連絡するように。あとバッテリーないなら、ケーブルあるから充電しな。コネクタも規格は気にせんでいい」

 山の中で、まさかのWi-Fi完備である。ケーブルの規格まで把握しているあたり、この老婆、現代機器に慣れているときた。

 ネットさえ繋がれば外との連絡は容易い。

「なんでもかんでもしてもらって、なんか悪気が」

「はぁ? 言っただろうて、身体でしっかり払ってもらうとな」

 五分後、紘真は文字通り身を持って知ることになる。

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