第四章:てふしろ様
第34話 靴跡ーコエー
虫人間が残した痕跡を追った三人を待ちかまえていたのは、廃鉱だった。
かつて霧鷹山は石炭が採掘されていたと、山小屋の老婆は語っていた。
朽ち果てた看板が足下に転がり、かすれているが<一九 九 月 二日に閉山します>と辛うじて読める。
本来、このような場所が封鎖されているのは、崩落の危険があるためだ。
だが、人の進行を遮る柵は木の根の侵攻により倒れ、意味を成していない。
「足跡があります。見るからについ最近まで人の出入りがあったようです。サイズからして男性、五島、いや、五島の靴より少し小さい」
陽川の警察の目が人の出入りを突き止める。
本来なら炭坑の出入り口は、木組みで封鎖されているはずが、出入り口脇に、それだったものが重ねられる形で丁重に置かれている。人為的にはずされたのは間違いない。長い間、雨ざらしであったため、木材は半ば朽ち果てていた。
「ちょうど山の中腹みたいね」
地図とGPSを併用しながら柊が現在地を照合する。
傍らでは紘真が腕時計で時間を確認していた。
夕方に至ろうとしている。どうりで薄暗いわけだ。
位置的に山道やキャンプ場への正規ルートから外れている。
加えて周囲は鬱蒼と茂った森で覆われており、人工衛星でも発見は難しい。
よほど地元に詳しい人間でなければ、廃鉱の正確な位置はわからないだろう。
「こういう廃鉱って地図とかあるんだけど」
ないものねだりだと紘真は嘆息ひとつ。
廃鉱は迷路のように、上下左右入り組んでいると聞いたことがある。
下手に進めば遭難、二度と日の光を拝めない。
加えてここは廃鉱、人の管理が離れたことで、坑道各所に崩落が起こっていれば、これから崩落が起こる可能性も高い。
「管理事務所とかないんですか?」
「あるにはあるみたいですが、見ないほうがいいですよ」
警察として坑道内に一歩踏み込んでいた陽川。
事務所は出入り口の真横にあった。山の岩盤をくり抜く形で作られたようだが、人の管理が離れたことで天井は崩落し、半ば埋もれている。かろうじて土から顔を覗かせる机やロッカーが、空間の用途を証明していた。
「目印付けながら進むのが順当か」
吹き返しの風で出入り口から舞い上がる砂埃に、誰もが若干むせる。
鼻から頭にかけてくる不快感を吐き出しながら、この坑道のどこかに汐香の身を案じる。
無事なのか、生きているのか、兄貴分として気持ちは逸るはずが、異様なまでに落ち着いている。
対して柊は逆だった。剛毅に振る舞っていようと、その内では心が波打ち、恋人のもしを想像してしまっていた。
「あ、これちょうどいいや」
紘真は落ちている手頃な木材を拾えば、ジッポライターの火で炙る。先端が黒こげになるまで炙れば、即席の木炭ペンのできあがり。
先端を壁面にこすりつけると炭化した部が付着し目印となる。
「先頭は私が行きます。お二人は離れないように」
陽川は拳銃と小型の懐中電灯を手にしていた。
警察官としての職務だろう。
虫人間という非常識を目の前で目撃しようと、揺るがないのは現場をくぐった数の違いか。
「いるな、確実に」
暗がりへと一歩踏み出す中、紘真はひとりごちる。
手の震えはない。ただ左腕の痺れは鳴り続ける警鐘のように消えない。五指を動かすのに影響はない。なにより、この痺れは、あの虫人間の存在を感知してくれる。
ほの暗さに、土とカビの匂いを漂わせる廃鉱。
先行きを示す照明など何一つなく、背後から吹き込むわずかな気流が、奥へ進めと押しているように感じられる。
ほんの少し前まで五里霧中だった。今は一寸先は闇の中を進んでいる。
暗闇の中、道を指し示すのは一本の懐中電灯。陽川が普段から持ち歩いている携行タイプだ。小さいが輝度は高い。ただ先が見えず、輝度が高いほど内蔵バッテリーの消費は高い。よって最小限の輝度で暗闇を照らしていた。
長年閉鎖されていただけに、廃坑内の空気は淀み、土埃が外から吹き込む風で舞い上がる。
「んっ!」
舞い上がる砂埃が目に入ったのか、紘真は瞼をこする。
再び瞼を開いた時、白きモヤが走る。
次いで声がした。いくつもの声が紘真の耳朶を震わせた。
知った声もあった。知らない声もあった。
気づけば、紘真は一人、暗闇に立っている。
そこは土臭さも淀んだ空気もない暗き世界だった。
お前のせいだ。お前が原因だ。
お前が赤子を助けなければ良かった。お前が逃げなければ良かった。
逃げなければその左腕が傷つくことはなかった。喰われていれば、それで終わりだった。
お前が連れ出したからこそ、多くの人間の未来が閉ざされた。お前が山に来たからこそあるべき種の未来が奪われた。
何故、山に来た。何故、山に再び足を踏み入れた。再び踏み入れさえしなければ、気づかなかった。犠牲者は出なかった。
お前のせいだ。お前が未来を奪ったせいだ。お前のせいだ。お前の傷が全てを惨劇を招き寄せた。お前のせいだ。お前が山に来なければ、幾人もの人間は死なずにすんだ。お前のせいだ。お前の傷が全ての始まりだ。お前のせいだ。お前が繁殖を妨げた。お前のせいだ。お前から傷を感じた時、排除せねばならぬと直感した。お前のせいだ。お前の傷が未来を繋げるきっかけとなった。お前のお陰だ。奪われた母胎を奪還できた。
声は責める。責める。知った顔の声で責めてくる。
祖父の声で、父親の声で、母親の声で、隣人の声で、知人の声で、級友の声で、心を痛めつける。
「俺の、せい?」
助けたから、託されたことが全ての元凶。
傷が残ったからこそ、奪われた赤子を見つけ出せた。
あの時、襲われたまま死んでいれば良かった。貪り喰われていれば、これから起こるであろう惨劇を知らずに済んだ。奪われる悲しみも、離別の悲しみも味わうことなどなかった。
お前が生きていなければ、全ては解決していた。
「ふざけた、ことを……」
奥底より湧き上がる感情が奥歯を噛みしめさせる。
肺胞は一瞬にして苛立ちで膨れ上がる。
精神攻撃のつもりだろうが、責め方が稚拙すぎる。
他人の面をかぶって責め立てていることこそ、己が矮小であると証明しているようなもの。
託されたからこそ関わり続けた。失わせないと走り続けた。
一人は所詮一人。
幼き子では守りきれなかったであろう小さな命。
小さな命が育ち、未来を進んでいる。
何人たりとも奪う権利はない。
奪われたくないなら奪うな。奪ったならば奪い返す。
『ったく、見ていられねーな』
唐突に別の声がした。老若男女が入り交じった声がした。
瞬間、暗闇は弾け、土臭さが鼻孔を刺激した。
「あ、あれ?」
「ここ、どこよ?」
夢から唐突に覚めるように、気づけば三人は、土壁で囲まれた空間に立っていた。
作業員や鉱物を運ぶトロッコのレールに沿って、まっすぐゆったりと下ってきたはずだ。
曲がった記憶もなければ戻った記憶もない。
明かりに照らされるのは口を広げる八方の土の口たる通路。 所々木材で補強が施されていることから、坑道内であるのは違いない。だろうと通った記憶はない。記憶はないが、地面に刻まれた靴跡が通ったことを証明している。
「一度戻りましょう。なんかこう嫌な予感がします」
陽川は眉間を寄せては神経を張り詰めさせる。
罠かもしれない。いや既に罠の中かもしれない。あの虫人間は、糸を使って狩りを行う。登山口で人間どころか乗用車すら引きずり込む力、侵入者をからめ取る蜘蛛のまねごとすら行っている。
「そうですね。一端戻りましょう」
紘真の左腕に痺れは走らなかった。ただ誰かの声を聞いたような気がするも、霧のようにモヤがかかり思い出せない。
今は引き返すべきだと思考を切り替える。
何より死んでしまえば誰一人助けられない。
だから紘真たち三人は壁面に記した炭のマーキングを頼りに戻ろうとした。
「え?」
壁面に記してきたはずの炭のマーキングが一つもない。それどころか握っていた棒きれが先端から欠落している。まるで鋭利な刃物で切り落としたかのように木目を露わとしていた。
「な、なんでいつのまに!」
紘真はただ困惑の感情を走らせるしかない。
虫人間が近くにいれば、その糸でさえ左腕が痺れて反応するはずだ。
近づかれたことも、痺れを走らせた記憶もない。
「嘉賀くん、落ち着いて! そういう場合は靴跡を辿るのよ!」
柊が冷静に言葉を走らせる。
壁面のマーキングがなかろうと、進んできた痕跡は刻まれている。
靴跡たる痕跡を逆に辿れば、元の位置まで戻れるはずだ。
「いえ、下手に動かないほうが、いいかもしれません」
陽川の警察としての目が柊を止める。ライトを照らせば、どの通路にも真新しい複数の靴跡が刻まれている。
そのうちの一つの隣に陽川が自分の靴跡を刻む。
全く同じサイズの靴跡が隣り合っていた。
「これは……私たちのです」
どこから入り、どこへどう進んだのか――。
判別つかぬほど幾重にも靴跡が刻まれていた。
これでは靴跡を辿れない。
マーキングがないから戻るに戻れない。
三人は坑道内に迷い込んでいた。
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