キョウソウキョウソ
こうけん
第一章:霧の山
第1話 野獣-クマ-
※WARNING! 虫嫌いな人は要注意!※
齢六の男の子は息を切らして獣道を走る。
時折、背後を振り返りながら、痛み噛みしめ必死の形相で走り続ける。
「はぁはぁはぁ! 守らなきゃ、守らなきゃ!」
「おぎゃおぎゃ!」
男の子は泣きじゃくる赤子を抱き抱え、背後から迫る死の恐怖から一歩でも遠ざからんと走り続けていた。
大人と比べて、背丈と体力の低い小さな子供。
左腕に走る焼ける痛みで、抱き抱えた赤子を何度も離しそうになった。
左の袖口から肩にかけてジャンパーは裂け、さらけ出された皮膚より赤き滴がしたたり落ちる。
ズボンも獣道を走り続けたことで、破れに破れ、血がにじみ出ていた。
それでも男の子の強き意志が足を止めない。赤子を手放すのを許さない。
草木に隠れ潜んだ石につまずきかけようと、茂み抜けた先に枝があって頬をかすめようと、赤子を手放さなかった。
僕はクラスで一番足が速いんだと生き巻く余裕などない。
来る、背後から確実に迫っている。
死の圧が無形の刃となって背中に突き刺さり、生への渇望を削っていく。
走る先より音がする。水が大量に落ち続ける音がする。
もし河川なら、辿れば人里に降りられる。助けを呼べる。窮地の中でわずかな可能性を抱く。
「う、そ、だろ」
茂みを駆け抜けた先が崖っぷちの光景に男の子は絶句する。
文字通りの断崖絶壁。
水が轟音と飛沫をあげながら遙か下へと急転直下している。
遠ざかっていたのではなく、追いつめられたと男の子は本能で理解する。
「どうするどうするどうする!」
男の子は小さき頭で何度も思考する。
テレビだと滝に飛び込めば、生き残れる。だけど、あれは作り物だと男の子は小さきながら、どこか理解していた。加えて、生後間もない赤子と飛び込めば、まだ弱い赤子の命はない。
茂みの奥より枝の折れる音が立て続けに響く。男の子には骨を噛み砕く音のように聞こえ、背筋を凍てつかせられた。
あれが来る。この子の親二人を貪り喰らったあれが来る。
今からおまえたちを喰らうと、宣告するように音は大きさを増していく。
男の子は恐怖に震えながら赤子を抱えて後ずさりする。
すぐ背後は崖、落ちれば死ぬ。落ちなくても食われて死ぬ。
「お、おまえなんて怖くないぞ!」
茂みより現れた黒き獣の影が男の子の全身を覆う。
恐怖の影に覆われようと男の子は精一杯の強がりであらがった。
黒き獣の正体はクマだ。本州全土に分布するツキノワグマ。
北海道を跋扈するヒグマより体躯は小さかろうとクマはクマ。
かわいいといえるのは、クマの生態と現実を知らない愚かな夢想家だけだ。
腕より生える爪は一振りで身体の肉を抉り、その顎は人間を骨ごと容易にかみ殺す。ニュースでクマに襲われ負傷したが命に別状はないと報じようとも、実際は手一つ、目一つ欠損した状態が珍しくない。
何よりクマは獲物を生きたまま喰らう。
ライオンのように喉笛に噛みついて窒息死などしない。
豪腕の一振りで獲物を弱らせ動けなくしてから、柔らかな腹に牙立て貪り喰らう。
懇願しようと悲鳴をあげようと、クマには関係ない。
ただ食事をしているだけ。
ただ飢えを凌いでいるだけ。
故に子供ひとりで立ち向かえる存在ではない。
クマは鳴き声一つ発することなく後ろ足で立ったまま男の子に迫る。
目は異様なまでに血走り、開かれた口より覗く血塗れの牙から唾液がこぼれ落ちる。
背後より激しき水音がしようと、唾液滴る音を男の子は捉えてしまう。
クマは巨躯を活かして飛びかかることも、腕を振り上げて爪で引き裂くこともしない。
ただ直立歩行を維持したままジリジリと男の子に迫っていく。
逃げられぬとクマはわかっているから。非力だとクマは把握しているから。
鼻をつんざく血の臭いがする。クマは男の子を眼前にまで迫り、血走った目で獲物を見下ろしている。
「ごめん、この子のお父さんお母さん!」
守ると誓ったのに約束を守れなかった。
目尻に涙を溜めて瞼を閉じた時、茂みの奥より鋭い駆け足がした。
「ぐるるるっ!」
茂みより飛び出すのは唸る一匹の茶褐色の犬。
犬は怖じけることなく背後からクマの右足に噛みついた。
だが犬の噛みつき一つでたじろぐクマではない。
黒き毛皮は硬く、犬の噛みつき程度で皮膚に達するほど柔ではない。
クマが犬の噛みつきに気づいた時には、すでに犬は茂みに我が身を飛び込ませて視界から消え失せていた。
「クロベエ!」
男の子は瞬間、犬がクマの気を引くだけの囮だと理解した。
ならば次に何が起こるのか、身を持って知っていた。
「伏せろ!」
諦めかけた心を突き動かす祖父の鋭い声が走る。既に男の子は赤子に覆い被さる形で地面に伏せている。直後、耳をつんざく銃声が立て続けに響く。
「俺の孫になにしとんじゃクソグマが!」
罵声と銃声は鳴り止まない。ガチャンと音がする。地面に二つ、落ちる音がする。何かに入れる音がする。銃声が立て続けに響く。後はもう繰り返しだ。
頭上で黒い何かが揺らめいた。そして派手な水音がする。
男の子は頭部を舐める身に覚えのある舌先に顔を上げた。
犬のクロベエがペロペロと男の子の顔を舐めている。
周囲を見渡そうとクマはいない。
ただ地面に刻まれた痕跡、足跡が存在を雄弁に語っていた。
「無事か!」
祖父が血相を変えて駆け寄ってきた。
生き残れたと、助かったと男の子は死の恐怖から解放されたことで大声で泣き出していた。
「うん、うん、僕、僕、うわあああああんっ!」
「もういい、もういいんだ。よくがんばった」
祖父はただ男の子を抱きしめ、頭を優しく撫でる。
硝煙の匂いが祖父からする。見れば、祖父がいた周囲には無数の空薬莢が転がっていた。何発撃ったなんて小さき子にわからない。わかるのは助かった。助けられた。赤ちゃんを守れた。この事実のみだ。
「すぐ戻るぞ。救助隊も駆けつけとる。ちぃと痛いがもう少しの辛抱だ」
祖父は自分の袖を片方引きちぎれば、男の子の左腕に包帯代わりに巻きつけ、止血する。
そのまま老人とは思えぬ膂力で男の子を赤子ごと抱き上げた。
「クロベエ!」
「わんっ!」
主の声に犬は威勢良く吼えれば、我先に茂みへ飛び込んだ。
クマが一匹だけとは限らない。安全確認のためであった。
「帰るぞ。その子と一緒にな」
この時の祖父の安堵した顔を男の子は覚えている。
忘れない。忘れるはずがなかった。
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