第10話 来訪ーモクテキー

 急いで服を着てリビングに入れば、玄関から男の怒声が届く。

 身を強制的に縮こませ、心を凍てつかせるようなドスの聞いた声。

 尋常ではない事態だと、男四人は急いで駆け寄った。

「いいから休ませろ! こっちは疲れてんだよ!」

 玄関口に立つのは一組の男女。

 家主である老婆が、どうにか応対している。

 ジャンパーにジーンズ姿の無精ひげの男。

 女は男と同じジャンパーだが下はスカート、暗がりに不要不便な目元を覆うサングラスときた。

 二人とも、明らかに登山に不向きな服装だ。

 男は大きなリュックを背負い、左肩に釣り竿ケースをかけている。

 不一致すぎる服装に、登山経験者たちからすれば、違和感を覚えるも、今は怖気を感じるまでに男の圧は強かった。

「じゃから濡れたまま入るなって言っておろうが! 今タオル用意させとるから、ちょっと待っておれ!」

 男女は雨嵐の中を進んできたのだろう。

 頭から靴先までびしょぬれだ。

 靴は登山に不向きなスポーツメーカーのスニーカーで、泥まみれとなって玄関口を汚している。

「急に押し掛けて、休ませろって迫っているの」

 鮎川が男たちに小声で発端を説明する。

 男たちが風呂で話を弾ませていると同時、女たちもソファーに座って話を弾ませていた矢先に現れた二人の来訪者。

「こっちは凍え死にそうなんだよ!」

「待てと言って、うおっ!」

 男は老婆を押し退けては我が者顔で入ってきた。

 倒れかけた老婆の背中を遠山が咄嗟に受け止める。

「おい、誰か知らないが失礼だろう!」

「そうだぞ。雨風で大変だったのは分かるけどよ、失礼なのも大概にしろ!」

 誰よりも身長のある向井が、男の前に立つ。身長はあるだけで武器となる。相手よりも高い目線で威圧できるが、この場合、逆効果だった。

「うるせえええええええっ!」

 男は異常なまでに興奮している。耳をつんざく怒鳴り声をあげたと思えば、左肩にかけた釣り竿ケースに手をかけた。

 瞬間、言語化できぬ怖気が紘真に走る。

「ちぃ、わかったよ」

 男を止めたのは連れの女。怒鳴り散らす男は物言わぬ女が肩に手を置いただけで鎮まっている。

 ただいらだつ感情は今なお鎮まらず、柊が持ってきたタオルを踏んだくれば、我が者顔で廊下を歩き、近くにあった部屋のドアを開けていた。

「あ、俺の部屋!」

 男女二人が入ったのは遠山にあてがわれた部屋だ。

 ドアは閉まられようと間を置かずして再び開く。

 中からスマートフォンや電子書籍端末が放り投げられ、床上に転がっていた。

「あの手の人間は下手に刺激しないほうがいいですよ」

 青川の言葉に誰もが同意するしかなかった。

「勝美さん、大丈夫ですか?」

「な、なんとかのう」

「警察は、呼んでも無理か」

 紘真は開かれたままの玄関ドアより覗けば、諦観気味に呟いた。

 通報はできるだろうと、警察が来るより先に、相手が危害を加えるほうが先だ。

 嵐が過ぎ去るのを待つように、下手に騒ぎ立てず立ち去るのを待つのが無難だろう。

「とりあえず、拭こうか」

 青川の提案に、男たちは頷くよりも先に身体を動かしていた。

 掃除で汚れようと、また風呂に入ればいいと思考を前向きに切り替えて。


「あ~眠れん」

 紘真はむくりとベッドから半身を起こす。

 右隣室の使用者が、不躾な男女であるため気が張って眠れないのだ。

 予備の着替えであるシャツにズボンを寝間着代わりとしているため、ベッドから出れば山特有の寒さが窓を伝わって身体を震わせる。

「今は……十一時か」

 スマートフォンの時刻は夜の十一時を過ぎていた。

 今一度眠ろうと、気が張って眠れない。のども渇いたため、水を飲もうと廊下に出た時、リビングから楽しそうな話し声がする。

 足を踏み入れてみれば先客がいた。

 家主である老婆と学者カップルの青川、恋人の柊だ。

 暖房の効いたリビング。

 ソファーに座って談笑していたようで、テーブルの上には人数分のグラスと酒瓶が置かれている。

 室内に漂う、むせかえるようなアルコール臭からしてウィスキーだろう。

 生前、祖父も夜酒として飲んでいた。

「おんや、小僧、眠れんのかい?」

「ええ、隣が隣なので。あ、水もらいますね」

 一言断りを入れながら紘真は、冷蔵庫から取り出したピッチャーからコップに水を注ぐ。

「大丈夫かい?」

「嘘のように静かなんで逆に不気味ですよ」

 心配そうに青川は声をかけてくる。現状、大丈夫だ。蜂の巣のように刺激さえしなければ問題ないだろう。

 一応、食事はと尋ねたが、乱暴なノックと拒否の怒声で返されていた。

「小僧、お前にはまだ早い」

「飲みませんって」

 グラスを呷る老婆に紘真は苦笑するしかない。

 紘真は未成年である。飲酒・喫煙はダメゼッタイである。

「ずいぶんと話が弾んでいるみたいですね」

「うん、勝美さんから色々ためになる話を聞けたんだ」

「そういえば青川さん、昆虫の学者さんでしたね」

「主に蝶や蛾の研究をしているんだ。フィールドワークで山を登っていたら、何度も蓮華さんと顔を合わせるようになってね。登山が趣味とかで気が合って、それから交際がスタートしたんだ」

「お~!」

 思わず紘真は目を輝かせてしまう。

 職場で出会って交際スタートは珍しくないが、行き着いた先で何度も出会いを重ねて交際スタートも珍しくない。

 一度目は偶然、二度目は必然、三度目は運命と誰かが例えたものだ。

「蝶や蛾の研究って言ってましたけど、違いってわかるんですか?」

 素人質問で恐縮だろうと紘真は率直な疑問を口に出す。

 青川は、ほほえましい笑みを浮かべながらも、口端にうれしさを宿しながら教えてくれた。

「そうだね。単手的に言えば、昼に活動するが蝶で夜に活動するが蛾だね。あと、とまる時に、羽をあわせて立てるのが蝶、開いているのが蛾。後は先端にある触覚、マッチ棒のように膨らんでいるが蝶、膨らんでいないのが蛾。胴体が細いのが蝶、太いのが蛾だね」

 同じ羽虫といえども、違いがあるのに驚きであった。

 紘真とて男の子だ。小さい頃は山に行けばカブトムシやクワガタに目を輝かせた記憶がある。楽しそうに説明する青川の目は、そんな純粋な目だ。

「力弥くん、昆虫のことになると子供みたいに目を輝かせるのよ。もう子供が生まれたら、四六時中、虫のことばかり話すわ、きっと」

「え、なら、お二人は?」

「まだよ、まだ。本音を言えば、籍を入れたいんだけど、力弥くんの研究が、今いいところでね。籍を入れるのも式を挙げるのももう少し先なの」

「もう少ししたら、すごい研究を発表できるんだ」

「教授も驚いていたわよね。大発見だって」

「うん、背中を押してくれた教授に感謝しないと」

 昆虫学に疎い紘真だが、嬉しそうに語る青川の様子からして、学会を揺るがすほどの大発見なのが素人でも感じられる。


「この山に訪れたのも幻の空飛ぶ蚕蛾を見つけるためなんだ」

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