第22話 悔恨ーユウカイー

 ――紘真、ヤツはまだ生きとる。あの山に行くなら気をつけるんだ。


 往年、祖父が最期に遺した言葉。

 足腰がしっかりしていようと、押し寄せる老いには勝てず、最期は、ほぼ病院のベッドの上で過ごしていた。

 日に日に弱っていく祖父だが、気丈さに衰えは見えなかった。

 退院したらキャンプに行こう。いや渓流釣りもいいかと、常に前向きだった。

 けれど、霧鷹山に関しては別だった。

『死んでいない』・『生きている』と険しい顔をして告げるのだ。

 警察の捜査により、下流にある河原からクマの左腕が発見されている。

 この腕の爪と紘真の左腕の傷が一致したことで、クマは死亡と判断された。

 洋画において、死体を発見するまで死んだとはいえないが、クマの遺体は滝壺の水底に沈んだと決定された。


「生きている、か」

 その夜、紘真は自室のベッドで横となり、左腕を掲げていた。

 隣の千野家からは家族団らんの声が聞こえてくる。

 痛ましい事件であろうと、遺された子供は家族に囲まれ健やかに育っているのは、関わった身として純粋に嬉しい。

「元気でなにより」

 袖をまくり上げれば、今も消えずに残る傷跡を露わとする。

 痛烈な出来事だったからこそ、記憶は色褪せない。

 確かにあの時、祖父は発砲した。間近にいたからこそクマをしとめたはずだ。

 なのに、祖父は滝壺に消えたクマが、今なお生きていると断言している。

 つらい思い出ある山に、孫が近づかぬよう告げた祖父なりの優しい嘘か。それとも猟師としての勘が危機を告げているからか、祖父亡き今となってはわからないままだ。

「確かめる価値はあるか」

 自問するが、迷いと恐れが自答に至らせない。

 ふと机の上に置いてあるスマートフォンが振動する。

 ベッドから起きあがった紘真は手に取れば、ショートメールの着信だった。

 相手は青川の恋人、柊だ。

<このニュース見て>と短い文面に添付されたアドレス。

 文面からしてリンク先はニュースサイトだろう。

 タッチ操作で開けば、リンク先のニュース記事に瞠目した。

「飛び降り? なんで?」

 ニュース内容は、長野の某病院にて入院患者が身を投げて死亡した記事。

 あろうことか、その患者は、紘真たちが下山途中で保護した女性だった。

 すぐさま詳細を確認しようと、他のニュースサイトを漁る。

 時間的に、今より三〇分前に起こったとされ、情報は錯綜していた。

 ただ、現場たる病院にいた人が、現場の動画を撮影しており、その一部がネットワークに流しているのを見つけだす。

『カエセカエセエエエッ!』

 慌てて撮影したせいで画面は揺れている。

 揺れているが、音声はしっかりと捉えられていた。

 病院着姿の女性は鬼のような形相で暴れている。病室と廊下を仕切る扉は、くの字の形で廊下に倒れている。男女構わず六人の病院スタッフが抑えにかかるが、力量差を物ともせず、はねのけている。一人は蹴り飛ばされ、壁面に背を打ち付け呻く。腕を押さえようとした一人は靴裏が床から離れるまで持ち上げられ、そのまま放り投げられた。正面から抑えにかかった一人は、白魚のような手に顔を掴まれ、絆創膏を剥がすかのように顔の皮膚を引き剥がされる。撮影者の息を飲む声がする。モザイクも何もない。廊下はしたたり落ちる血で汚れ、激痛に悶絶している。

『ドコヤッタドコニアアアアアアア!』

 女性は下山の時以上に錯乱していた。背後から抑えたスタッフを引き剥がさんと壁面に挟み込む形で背中から押しつける。激突した瞬間、硬い何かが折れる音がし、スタッフが口より血を流しながら壁にもたれる形で動かなくなる。

『アノ、カ、コ、エセ、アイツノセイデ!』

 支離滅裂な言動は続く中、息を切らしながらも唐突に立ち止まる。スタッフたちは一定の距離をとりながら警戒するが、ふと窓辺に顔を向けては口端を歪めて――笑った。

「ミツケタ」

 素足で床を蹴った時、女性の身体は窓から外に飛び出ていた。

 人間は空など飛べぬ。空を飛ぶのに夢想しようと現実は飛べぬ。

 間を置かずして、硬く砕ける音が部屋の外から廊下を通じて伝わってくる。

 一瞬の静寂を経て、院内は騒がしくなる。そこで動画は終わっていた。

「なんだよ、この寒気は……」

 女性の最後の言葉が紘真の背筋に怖気を走らせ、鳥肌を際だたせる。

 記憶が勝手に一〇年前のクマと紐付け、恐怖を呷る。

「動画は、消されてる」

 あまりに生々しかったからか、規約にひっかかり消されていた。

 撮影理由など、様々であるが、承認欲求や視聴回数稼ぎが多い。

 ただ紘真からすれば理由など、どうでもよかった。

「一応、警察に相談したほうがいいよね」

 流れから動画を見た身、遭難者搬送に関わった身として、警察に相談するのが吉だ。

 警察で思いついたのが、昼間来た警察官二人。

 捜査状況的に、関連はあっても部署的に無関係かもしれないが、とりえず浮かんだ顔なので相談することにした。

「えっと名刺、名刺」

 昼間に受け取った名刺をどこにやったのか、机の上や服のポケットを漁る。左腕に静電気が走ったのと隣の千野家から窓ガラスの割れる破砕音がしたのは同時だった。

「な、なんだ!」

 窓から外を覗けば、隣家の庭に誰かが倒れている。家から漏れ出る照明に照らされる姿は千野家の大黒柱、千野祐介ゆうすけ。そして向かいあう形で誰かが何かを抱えている。

 逆光となりわからない。

「おとーさん! ゆ、ゆーねえ!」

 勇磨の叫び。紘真の手は窓を開け、足は縁を蹴り、屋根を足場として外に飛び出していた。

 二階だろうと、飛び出すなど無謀。骨折は免れず、下手すると打ち所によっては死に至る。

 だから紘真は、眼下に映る誰かをクッション代わりにして激突していた。抱えている何かを見逃さなかったからだ。

「ぐおっ、ぐほっ!」

 紘真は、足先から頭にかけて全身を貫く衝撃に悶絶しながら庭を転がり落ちる。勢いは消えず、背中を柵にぶつける形でようやく停止した。

 二階から隣家の庭へのジャンプは成功しようと反動はきついが、やせ我慢をしながら紘真は立ち上がる。

「こ、紘真くん!」

 右腕を苦悶顔で抑えている祐介が、降って現れた紘真に驚いている。

「なっ、お、お前っ!」

 紘真は身体を激突させようと、悠然と立つ誰かの正体に瞠目する。

 直に、写真にと見た顔は紛れもなく五島剛志だ。山小屋で目撃した服装と変わらず、ただ相違があるとすれば、夜であろうとサングラスをしていること、その脇に汐香を抱えていることだ。

 汐香の意識は糸のように切れ、手足を力なく下に伸ばしていた。

「くっ!」

 紘真の行動は早かった。汐香を五島から救い出さんとする。だが五島の行動は先を行き、開いた右腕で蚊を払うかのように紘真の身体を弾き出す。

「ぐはっ! うごっ!」

 庭の上を紘真の身体が再度転がる。鉄骨で直に殴られたような衝動に意識が飛びかける。

「こ、紘真くん!」

 祐介の叫びが、どうにか紘真の意識を繋ぎ止める。

「バカ力なバカ力が」

 口の中を切ったのか、鉄の味が広がる。紘真は悪態と一緒に唾液混じりの血を吐き捨てた。

 ああ、山登りのために身体を鍛えていて良かったと思いながら。

「どこ行こうってんだ!」

 五島は路傍の石でも相手にするような態度であり、無言で背中を向けて立ち去ろうとする。逃げるのなら一人で逃げればいい。ただし、その脇に抱えた汐香は置いていけ。その子はお前の子供じゃないだろう。千野家の子供だ!

「聞いているのかよっ!」

 日頃は温厚な紘真とて、五島の行動は看過できない。

 目的? 理由? 知ったことではない。家族を奪われるのは断固として認められない。

 背を向けて去る五島から汐香を取り戻そうと、紘真が左手で右肩を掴んで振り替えらせんとした時、指先から二の腕にかけて、言語化できぬ電流が走る。

「なっ? ぐっ!」

 左腕に走る電流が紘真に一瞬の空隙を生み、またしても右腕で弾き出されてしまう。その際の衝動で五島のサングラスが外れて庭に落ちる。

 身体をよろけさせながらも、紘真はどうにか踏み留まる。

「返せっていっ、て、えっ!」

 全身が砕けそうな錯覚を抱きながら、今一度挑む紘真だが、サングラスのない五島の顔に意識を空転させる。

 その目に、意識を縫い止められてしまったことで五島の離脱を許してしまった。

 五島の足が、家同士の敷地を隔てる柵に足をかける。その柵を足場にして、一階の屋根に飛び上がれば、その屋根を足場に二階の屋根に上がる。後は隣家から隣家にと屋根伝いに移動していた。

「ゆう、か」

 託された子供が、今まさに目の前で連れ去られた。

 全身を苛む激痛をやせ我慢する紘真だが、ついに限界が訪れ、地に引き寄せられるまま仰向けに倒れこむ。

「紘真くん!」

「こーにい!」

 近くにいるはずの千野家の声がえらく遠く聞こえる。

 遠くからサイレンの音がする。ああ、誰かが通報したのだろう。

 だが、犯人はもう現場にいない。

「くっ、そっ!」

 悔恨の言葉が、紘真の意識の最後だった。

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