第32話 炎上ーバクロー
床板に靴裏をつけるなり紘真の体重で軋み音をあげる。
侵入第一歩の音に心臓が跳ね上がるが、この程度でと身を竦ませない。
(これは、ひどい)
ドアの隙間から室内を覗く紘真は驚嘆するしかない。
室内は嵐に遭ったかのようにソファーやテーブルなどがひっくり返されている。
冷蔵庫すら例外なく横倒し。
中身――見覚えある肉塊が床上に散乱している。
戸棚を見れば、横倒しのせいで、こちらも中身が散乱、むせかえるような匂いが室内に充満している。
外にまで流れなかったのは気流のせいだろう。
室内の惨状は、あの日、五島と連れの女が利用した翌日の部屋を拡大再現したようなもの。
(いるとみて、いいよな)
気配はない。気配はないが、何故か、左腕の表皮に走る痺れが止まらない。
五指や腕を振るうのに影響はなかろうと、まるで危険を知らせるシグナルとして緊張を底上げしてくる。
(この傷、青川さんの研究室にあった傷と同じだ)
冷蔵庫や壁には刻まれた見覚えある傷。鋭利な刃物で刻まれた傷は、緊張を高めさせるのに十分だ。
(電話は、ダメか)
玄関先にある電話機の姿を視認する。
土台ごと切り刻まれており、電話として使用できない。リビングにあるWi-Fi機器も同じだ。何より、どうしたらバターのように綺麗に切断できるのか疑問を呼ぶ。
そして、切られでもしたらと怖気を走らせる。
(どこにいるんだ汐香?)
スリッパがある廊下まで目測で五メートルほど。
間には倒れたソファーや切られて飛散したイスがあった。
恐れはしても怯えるな、だが焦るなと紘真は自分に強く言い聞かせる。
真っ二つとなって転がるソファーを遮蔽物にして、イスだった木片を紘真は掴む。振りかぶってはスリッパがある地点に向けて投擲した。
破片はスリッパに当たり、音を響かせ弾き飛ぶ。
緊張でのどが渇くのを実感する中、動きのない状況が心臓に早鐘を刻ませる。
(一時的に使ったのか?)
罠ではなく、置き去りになっただけなのか、と疑問を走らせる。
家主も安否も気になり、他の部屋を調べようとした時、左腕に今までにない激しい静電気が走る。
「上っ!」
走る痛みが紘真に直感的な言葉を走らせた。
音すら、いや影すらなかった。咄嗟に床板を蹴って真横に飛んだ時、遮蔽物代わりにしていたソファーが更に半分となる。
床上を転がる紘真は、現れた人影に瞠目した。
「ご、五島!」
その姿は、あの日、あの時、汐香を連れ去った姿と同じ。
サングラスはない。目元を隠すものがないからこそ、人間ではない赤玉色の目が露わとなり、人間ではないナニカを思わせる。
だが次いで解せなかった。五島は猟銃を持っているはずが、丸腰。丸腰のはずが、どうやってソファーをケーキのように綺麗に両断したのか、謎が呼ぶ。
「んな暇あるか!」
今、謎を追うのは死を追うのと同じ。追われ追われて終わりとなる。
「んなくそ!」
右手を振り上げてきた五島に向けて、紘真はイスの残骸を投げつけた。
五島がその腕を振り下ろした時、イスの残骸は綺麗に切り捨てられた。
刃物らしきものは何一つ持っていない。確かに手は手刀の形をしているが、形をしているだけであって、本物の刀のように綺麗に切れるはずがない。
「か、嘉賀くん、どうした!」
「五島がいた! こいつ、やばい!」
外の陽川に伝える紘真だが、語彙力が現状に追いつけない。
窓から飛び出すと息巻いたものの、五島は窓に立ちふさがるように立ち回っている。
「うおっ!」
がれきに足を取られて倒れかけた紘真の頭上を五島の手刀が通り過ぎる。その爪先に触れた壁には鋭利な傷跡が刻まれている。
「今そっちに、なんだこれ!」
陽川が救援に駆けつけようとするが、声が止まる。
「くっそ、これは糸か! 絡まって動けない!」
「ちょっと、なによこれ!」
恐らくだが、本来入ろうとした部屋には不可視の糸の罠が張り巡らされたようだ。
まるで蜘蛛の糸だと痛感する。金属球は小さき故も通過した。部屋をズラして侵入したのは正解だった。まっすぐ部屋に侵入していれば、紘真が不可視の糸に絡められていたはずだ。
「くっそ、どうする!」
援護は当てにできない。加えて、下手に他の部屋に逃げ込もうならば、動き縛る不可視の糸が張り巡らされている可能性も高い。
「ここで、どうにかする、くっ、ないのか!」
五島に蹴り飛ばされた紘真は、その瞬間、床を蹴ってソファーの残骸に方向を展開させる。背中は壁ではなくソファーに当たり、柔らかさが来るべき衝撃を緩和させた。
「うおっ!」
身を立てなおうとする紘真に向けて、五島が頭上から手刀を振りかぶってきた。
そのまま振り下ろされれば、紘真の頭はスイカのように真っ二つとなる。
「ええいっ!」
歯噛みする間もなく、紘真は身を深く沈み込ませ、あえて真っ正面から五島に突っ込んだ。それは折しもラグビー選手が行うタックルであった。既に手刀を振り下ろした五島は避けるに避けられず、真っ正面から紘真のタックルを受ける。勢いは死ぬことなく、二人はもつれ合ったまま横転した。
「ぐっ!」
先に起きあがったのは紘真だが、鼻につくアルコール臭に顔をしかめる。
破砕した酒瓶と飛散した中身が床に紋様を作っている。
そして奇跡的に酒棚に無傷で残った一本の酒瓶を紘真は掴みとった。
「ごめん、勝美さん!」
今から行うのは起死回生の一手だろうと、住人からすれば悪手。
けれども、今はこの手しか浮かばなかった。
紘真は起きあがった五島に向けて酒瓶を投げつける。
ドラマでは酒瓶で殴れば、粉々に砕け散るが、あれは素材がガラスではなく飴細工だから。細かく砕けるよう見栄え重視の演出用の小道具である。実物でやろうならば鈍器となり致死に至らせる凶器だ。
もっとも五島には通じず、右手を振るわれ、酒瓶を真っ二つにされた。
それでいい。切られるのは想定済み。紘真の狙いは、その中身を五島に浴びせることだ。
五島は、自身の全身から出る、むせかえるアルコール臭に一瞬だけひるむ。
「二人とも動けるなら外に出て!」
廊下に身を飛び込ませた紘真は叫んだ。
小さな木片を掴み、ジッポライターで着火。
即座に五島へと投擲する。
酒棚にはアルコール度数の高い酒ばかりあった。
室内が荒らされたことで酒棚は崩れ、ぶちまけられた中身は気化している。
そのような空間に火種一つ、放り込もうならばどうなるか、分かり切っていた。
「ぐっ!」
一瞬にして五島の身体は炎に包まれる。熱波が紘真にも押し寄せ、肌を叩きつけた。
全身を焼き尽くす炎に五島は悶え苦しみ、炎は周囲の家具に引火、木造であることから瞬く間に燃焼を拡大させる。
拡大を手助けするのは不可視の糸。家中に張られていたであろう糸は炎を伝播させていた。
「AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAっ!」
耳をつんざく絶叫が五島からほとばしる。脳天揺るがす絶叫は紘真の動きを縛る。五島は、そのまま壁をぶち抜き、室内に轟音を置き去りにして外に飛び出していた。木だろうと生身でぶち抜く光景に絶句する暇などない。飛びかけた意識をどうにか奮い立たせた紘真は、玄関ドアから飛び出し後を追う。
「嘉賀くん!」
紘真の後に続くように罠から脱出した陽川が追いついた。
やや遅れて柊が来る。二人とも山小屋の前で、全身火だるまとなりもだえる五島に絶句する。
「ちょっと、やりすぎでしょう!」
柊の批判は当然だろう。人を燃やした。殺人及び殺人未遂の現行犯で逮捕されても文句は言えない。相手は武器を持たぬ丸腰だったことも輪をかけて正当防衛は認められないだろう。
そう、相手が人間であるのならば。
「水を!」
「その前に、見てください!」
警察として陽川の行動は当然だろうと紘真は制止する。
五島は悶え苦しみ、炎に包まれながら右腕を落とす。次いで左足が身体から離れた。炎に包まれた背中が激しく波打ち、一対の羽が現れた。蝶か、蛾か、素人目にはわかるはずがない。五島の頭部が、落ちる。炎の中より覗く蛾のような顔が、赤き結晶のような複眼が紘真たちを捉える。
そこに立つのは五島ではない。
まるで虫と人間をかけ合わせたような体躯、頭頂部から延びる一対の触覚、宝石と見間違えるような複眼、噛みちぎるのに特化したトラバサミのような口部、四肢はあろうと節があり、わき腹からは別の小さな腕が伸びている。またその手は刃物のように鋭く、カマキリを連想させた。
「虫、人間……」
陽川は声を震わせるしかない。次いで激しい耳鳴りと重圧が五島だったソレから放たれ、全身焼き尽くす炎が消し飛んだ。
「ぐうっ、この音と重さ、まさか!」
うめく紘真は刺激された記憶に叫ぶ。
一〇年振りに霧鷹山に登った時、霧の中より感じた威圧。
クマかと思った。だが、正体は虫人間だった。
「これが、てふしろ様なのか」
あまりにも現実離れした異形だった。
あれを神様と呼ぶのか。いや、神とは人智を越えた存在。
それ故、異形たる虫人間を昔の人々は神と崇めて奉った。
虫人間の複眼は紘真たちを睨みつけているように見える。
背後には燃えさかる山小屋。
照らされる熱が背中に当たる。
逃げ場はない。
あの口で、あの手で襲われれば、一瞬で喰われるだろう。
あれは捕食者の目だ。
だが背中の羽を羽ばたかせ、音もなく浮き上がる。
地面すれすれの高度で、脚を引きずりながら霧立ちこめる山中に飛び去っていた。
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