第36話 胸腔ーアナー
白衣のミイラ。
全身の皮膚と骨が張りつき、土色に乾いている。
眼孔は窄み、頭髪は枯れ木のようだ。
喉仏があることから男性で間違いないが、朽ちた具合からして正確な年齢は不明。
陽川は警察として遭難者が、この部屋に辿り着こうと力尽き、そのまま朽ちたと思ったが、この遺体は色あせ朽ちた白衣を着込んでいる。
何より瞠目すべきは胸部に開いた穴だ。
肋骨が花開くように外へと広がっており、一昔のエイリアン映画を連想させる損傷具合であった。
青川が震える唇から、どうにか声を絞り出す。
「お、恐らくだけど、お、覚えてるかな? 蚕蛾の品種改良に命を、か、賭けていた人、のこ、と?」
「ならこの人が……」
陽川以外、あの場にいたからこそ、紘真は、すぐさま思い出せた。
山小屋の老婆は、ここ最近、連絡が取れぬと嘆いていたこともまた。
既に死んでいるのなら連絡は取れないはずだ。
「ふむ」
遺体を目の前にしようと警察だからか、陽川は白い手袋をしてあれこれ遺体を調べている。スマートフォンで写真を撮るのも忘れない。特に胸部に開いた穴を入念に調べては、懐中電灯で体内を照らしていた。
登山時の姿はやや足りなさそうだったが、遺体を調べる姿は文字通り警察官の一人だ。
「流石、警察ね」
仕事っぷりに柊は感心してしまう。
青川の呼吸が落ち着いたのを見て、紘真は聞いていた。
「青川さん、大学でいったいなにがあったんですか?」
「お、襲われたんだよ。いきなり窓から、五島が入ってきたんだ。そしたら急に狂ったように暴れ出した。それだけじゃない。あれを、あれを食べられたんだ!」
あれがなにを指すか、柊から話を聞いていた故、誰もが顔を見合わせ頷きあう。
「サナギですか?」
陽川の発言に青川は眼鏡越しに両目を見開き驚いた。
秘匿された蛹を第三者に知られてしまったと怖気を顔に走らせるも柊がすぐさま補填する。
「研究室から丸ごとなっていたから、状況的にね」
「そう、なんだ……ごめん、蓮華さん」
消沈する青川の謝罪理由は一つしかなかった。
本来なら、二人の入籍は早々と行われる予定だった。
だが、研究の公表を理由に先延ばしとなっていた。
双方、理解していたが、ここにきて研究成果の要となるサナギが盗まれるどころか喰われた。
「サナギを喰っただなんて、腹が空いていたって意味じゃなさそうですね」
紘真に青川は分からないとしか首を振らない。
ただ落ち着いたからか、青川の矢継ぎ早となった次なる発言に誰もが言葉を失った。
「サナギを喰った後、そ、そいつは身体から針を出してきたんだ。蜂みたいな針だけどサイズはその比じゃない。咄嗟に学術書で防いだけど、貫通の衝撃で意識を失って、気づけば空の上にいた。そうして、この山に連れ込まれてたんだ。信じられないけど、本当なんだ!」
そういえばと紘真は、穴の開いた学術書があったのを思い出した。
咄嗟の判断が生死を別けた。
もし本でガードしていなければ、青川は今頃、虫人間のエサとなっていたはずだ。
「大丈夫よ、力弥くん。私たちもついさっき、五島の皮をかぶった虫人間に襲われたの」
「それだけじゃないんです。俺たち最初は、登山口にいたんです。けど、糸に巻き付かれて、山中に引きずり込まれました。勝美さんの山小屋まで向かったんですけど、中はあいつに荒らされて、罠を張られていました。ただ勝美さんの安否は不明で……それで」
「ええ、それで嘉賀くんが五島の相手をした時にね。お酒で五島を燃やしたの。そうしたら炎の中から、虫人間が出てきたわ」
「え、それなら、その山小屋は……」
青川は愕然とした目を紘真に向ける。
「絶賛炎上中でしょうね」
「仕方ないでしょう。それしなかったら、こっちが殺されていたんですから」
青川の人柄からして責めているわけではないが、実行した身として紘真の良心に重くのしかかる。
「んむ~死後、おおよそ一年ぐらいかな?」
遺体を調べていた陽川の口調はどこか鈍かった。
「わかるんですか?」
「正確な日付は、検死医にしてもらわないと分からないですけど、おおまかに予測はできます。詳細は敢えて省かせてもらいます。なんせおかしいんですよ。このご遺体」
「おかしいってどういうこと?」
「内蔵がまったくないんです。内蔵どころか脳すらないんです。朽ちるなり干からびるなり、残るものは残っているはずなんです。それが文字通りの骨と皮だけなんですよ」
ゾッと怖気が走る発言だった。その怖気に答えるのが青川だった。
「喰われたんですよ。孵化した幼虫に」
次いで青川は、机の引き出し、三段目を指さした。
紘真が引き出しを開けば、一冊の分厚いノートが入っている。
手にとって開けば、それは日記、それも観察日記のようだ。
文字はかすれようと、どうにか読むことができた。
ついに、ついに改良に成功した。
これならば今まで以上の生糸を生産できる。
試しに一束作ってみたが、質・長さとも高級品に引けを取らない。
かつてこの山で一級品として名を馳せた<白霧>以上の品だと自負している。
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