第2話 梅の甘露煮

 縁側につるしてあるすだれが揺れ、生ぬるい風が室内に入り込んでくる。湿気を含む重たい風は、雨の予兆だ。今日の予報では、夜から雨模様だった。


「もう、この湿気耐えられない。体が重いよー」


 お猿のママは仏間の畳の上に寝そべり、弱音を吐いていた。


「これぐらいで音を上げてたら、京都の夏を越せないよ。ていうか、ママって京都で育ったんでしょ」


「そうだけど、この体はとくに暑苦しいの!」


 たしかにぬいぐるみの体は、湿気をよく吸いそうだ。湿気が原因なのか、ママはぬいぐるみのように、寝ていることが多くなった。


 このまま動かなくなったらどうしよう……。内心では心配していても、わたしは平気なふりをして、ザルから青梅を一粒つまむ。


「薫ちゃん、さっきから何してるの? 無表情で梅をぶすぶす針で刺してて、怖いんだけど」


 ママは、軽そうな頭だけこちらに向けた。


「梅の甘露煮つくるの。おいしいよ」


 今年の梅は豊作で、お隣の桐野さんやいつもいろいろ頂く宇津木さんに配った残りを梅干しと梅ジュースやジャムにしても、まだ余っていた。


 傷のついていない青梅に針や竹串で穴をあけないと、煮る時に皮が破れるのだ。甘露煮は何回もあく抜きしないといけない。手間はかかるが、おかずともお菓子ともいいがたい不思議な食べ物だ。


 口に入れた瞬間とろとろの甘味を感じたと思ったら、酸っぱさやってくる味は病みつきになる。こうやって無心で針を刺すところから、甘露煮に憑かれているとも言える。


「甘露煮……。薫ちゃん、このままここにいたら、おばあちゃんみたいになるよ」


 おばあちゃんみたいに……。それがわたしのこの家における理想形かもしれない。


「ねえ、大学の夏休みって長いんでしょ。その間でもどっか、涼しいとこ行こうよ。もう、盆地の暑さは嫌だ!」


「おお、いいねえ。アメリカに行こうぜ」


 突然会話に入って来たのは、手土産をぶら下げたマイケルだった。晩ごはんを食べたいと、朝に連絡があったのだ。マイケルは縁側から上がり込む。


「アメリカも熱いが、カラっとしてるんだ。日本の湿気はどうにかならないのか」


 頭木くんには愛媛に誘われ、マイケルにはアメリカに誘われ。本当に、京都から夏の間でもママを連れて脱出しようかな。


 そう思っても、てっちゃんと離れるのは不安だ。


「マイケル、今日は何持って来たの?」


 ママは自分が食べられないのに、マイケルが手にするビニール袋の中身が気になるようだ。


「今日は、肉だ。スタミナをつけるには肉にかぎる!!」


 そう、今日はマイケル提供のお肉で焼き肉の予定。猫のミヤも肉という単語がわかったのか、居間から仏間にやってきた。


 準備が楽なので、デザートにと梅の甘露煮を仕込んでいるのだ。お肉で脂っぽくなった口の中に、梅の甘露煮を放り込むと味覚がリセットされ、よりお肉が食べたくなるだろうという目論見だ。


「今日はてっちゃん、いるんだろ?」


 マイケルは二階を指差す。


「いるよ。最近てっちゃんまで、カビが生えたみたいに部屋にとじこもってるけど」


 ママがちらりとわたしを見て答えた。わたしとてっちゃんの間に流れる微妙な空気を、敏感に察知しているようだ。


 気まずい家族がいる家庭内の正しい距離の取り方は、極力顔を合わさないである。


「まあ、肉の匂いにつられて出てくるさ。なんてったって、今日は三嶋亭の黒毛和牛だぞ!」


 ママが「きゃー、三嶋亭!」と黄色い声を出した。


 三嶋亭は、明治創業のすき焼きの名店。食事だけでなく、店頭で肉の販売もしている。京都に住むものなら、誰もが一度は食べたい憧れの牛肉なのだった。


 さっそく食べたいところだが、時刻はまだお昼。マイケルは暇なのか早めにきたようだ。梅の甘露煮もこれからつくるというのに。


「でもさ、やけに早く来たね。どうしたの?」


 ママが湿気に膨らんだように見える体を起こした。


「ああ、今日午前中、市内に買い物に行ってたんだ。三嶋亭で肉買って、寺町通りをうろついてたら、典子さんところの常連さんに会って」


 マイケルが日本にいる間のお気に入りのお店に、典子さんのところが入っている。ちゃんとママのことは口止めしつつ、わたしが紹介したのだけれど気に入ってもらってなによりだ。


 あの辺をぶらついている常連さんというと、マハラジャの常連さんだろう。あの人は寺町通りにビルをお持ちなのだ。そのビルのテナント代で生計を立ててらっしゃるので、基本することがない。


 そういうビルのオーナーさんが、喫茶店でたむろする光景は四条辺りでよくみかける。


「それがどうしたのよ」


 起き上がったママの体を、ミヤがくんくんと匂いを嗅いでいる。わたしは、穴をあけた梅を台所に運ぼうと立ち上がったのだが、ザルに入れそびれた梅がひとつぶ畳に落ちマイケルの足元まで転がって行った。


「てっつんがストーカーにあってるみたいだとか、その人が言うもんだから、心配になって。もし、美夜や薫が巻き込まれたらってな」


「ストーカーって言うか、無言電話が何回もかかってくるだけや。典子さんとこで、そんな話しただけやのに。噂に尾ひれがつきすぎや」


 てっちゃんが目をショボショボさせながら、仏間に入って来た。


「無言電話って、非通知なの?」


 わたしが持つ梅の入ったザルを、てっちゃんは取り上げ台所へ向かう。わたしはその背中を追った。


「もちろん。公衆電話の時もある」


「なんか、気持ち悪いね」


 ママまで、とことこ台所へやってくる。もちろんマイケルも。狭い台所に人間が三人と、ぬいぐるみ一体と猫一匹が集合して酸欠気味だ。

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