第9話 カルボナーラ
バイトが終わったのは、夜の九時。まかないを食べて帰宅すると十時を過ぎていた。玄関の灯りを頼りに鍵をあけて入ると、お猿のママがとことこと居間から出てくる。
「おかえり、駅から大丈夫だった?」
「自転車なんだから、心配ないよ」
駅までは歩ける距離だけれど、夜遅くなる時は自転車を使っていた。お風呂に入ろうとシンクの横を通ると、食器乾燥機の中の食器がてっちゃん一人分より多い。
「マイケル来てたの?」
「来てたよ。休みだから、薫ちゃんが家にいるものだと思って、連絡せずに来たの。そしたら薫ちゃんはバイトだし、てっちゃんまで今日は珍しく出かけてて。かわいそうだからわたしが相手してあげてたの」
「へえ、てっちゃんまでお出かけとか珍しいね」
人出の多いゴールデンウイークにわざわざ出かけるなんて、自由業の人間のすることじゃないって毎年言ってたのに。
わたしの台詞に嫌味を感じ取ったのか、ママがあわてててっちゃんをかばう。
「デートとかじゃないよ。買い物に行ってたんだって。夕方には帰ってきたから」
ふーんと、一応ママの言葉を信じることにする。
「ごはん、どうしたの?」
食器を見ると、パスタ皿を使ったようだ。
「マイケルが、カルボナーラ作ったんだよ」
「うちに生クリームとかなかったけど」
カルボナーラで使う材料を思い浮かべて言ったのだけれど。
「本場のカルボナーラは生クリーム使わないんだって。材料の豚の塩漬けとか、ペコリーノチーズは家に取りに行ってたよ」
「へえ、すごく本格的だね。おいしそう。今度作り方教えてもらお」
「むかし、イタリア人の彼女がいたんだってさ」
……なるほど、モテ男ふたりで夕食を食べたのか。さみしいどころか、楽しそうだ。
「でもね、せっかくつくってくれたのに、てっちゃん文句ばっかり言ってさ。味が濃すぎるとか、薫ちゃんの料理が食べたいとか。マイケル呆れてた」
「わたしの料理って、お昼はちゃんとつくっておいてたのに」
ゴールデンウイーク中はお昼ご飯をおいておいたけれど、夕飯はわたしがまかないを食べて帰るので、てっちゃんのことは放っておいた。放置の理由に、幾ばくかの嫉妬が入っていたことは認めるところだ。
わたし以外の女の人の世話になれるものなら、なってみろ。という、やけっぱちな放置である。
しかし、てっちゃんの世話を焼いたのはマイケルだけだったという事実。
「マイケルが薫に見捨てられたのかって言ったら、てっちゃん何にも言い返せなくてしょんぼりしてたよ」
わたしは脱衣所に向いていた体を反転させ、二階へ向かう。てっちゃんの部屋の前に立ち、「ただいま」と声をかけた。
とたんに、部屋の中からガタッという物音と「イタッ!」という声が同時に聞こえ、がらりと引き戸が開いた。
「おかえり。ご飯食べてきたんか?」
数日見なかっただけで、てっちゃんのきれいな顔は少しやせ肌に艶がないような気がする。
「うん、まかない食べたから」
「そうか……」とてっちゃんが言うと、会話が途切れた。家族の会話ってどんなものだったかと思い出しても、思い出せない。
「あんな、あさって薫の誕生日やろ。いつものカレーつくるしいっしょに食べよ。バイト終わってからでええし」
力が入っていた肩が、重力に従ってストンと落ちた。
「さすがに、誕生日にバイト入れてない。典子さんも、その日は家で食べなさいって」
てっちゃんのこわばっていた顔がとたんに、ぱあっと明るく輝き出す。
「ほんま、よかった。ほな、上等の牛肉
「いいよ。いつもの豚こま肉で」
貧乏だった我が家のカレーは豚こま肉を使い、隠し味を入れていたのだ。
「いつものカレーでええの? こうスペシャルな感じはいらんのか」
てっちゃんはわちゃわちゃと両手を動かし、スペシャルを表現しようとするがあまり伝わってこない。
「いらない。今まで通り、何も変えないで」
わたしがそう言うと、てっちゃんの胸の前で動かしていた両手があきらめたようにすとんと落ちた。
「サラダはわたしが作るね。あと、ケーキはいつものお店」
「ほな、いっしょに買いに行こ」
「うん」と返事を廊下の冷たい板の上に落とす。これでいい、何も変えなくて今まで通りにすればいい。そうしたらわたしのスペシャルな気持ちも、そのうち日常に紛れて目立たなくなる。
「お風呂入ってくる」
普通に、普通に。そう心の中で唱えながら階段を降りても、てっちゃんの部屋の戸が閉まる音は聞こえてこなかった。
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