第8話 六条さん

 京都のゴールデンウイークは、どこもかしこも観光客でにぎわっている。しかし、先斗町の路地の奥にある小料理屋は、変わらず日常の時間が流れていた。


「うっとこは、観光客向けと違うしな。常連さんに支えられてる店や」


 典子さんのいつもの台詞を聞きつつ、わたしはバイトに励んでいた。大学生になっても、学業優先とてっちゃんに言われバイトは週二回だけしていたが、ゴールデンウイークは毎日働いている。


「薫ちゃん、夜のバイトなんて珍しいな」


 常連さんに言われ、わたしはあいまいに笑う。


「そら、大学生にもなったらいろいろ遊ぶ軍資金がいるわなあ。うちは助かるしええけど」


 典子さんが適当に、わたしの事情を捏造する。


「遊ぶとこいうたら今どきの大学生も、やっぱり祇園のマハラジャか?」


 祇園のマハラジャ? なんで祇園にインドの王さまがいるのだろう。祇園のインドに行ったら、ここでバイトをするより現実逃避できるだろうか。


 お金が欲しいわけでも、働く祖母を助けたいわけでも、祇園のインドにいきたいわけでもなく、わたしの働く動機は家にいたくないだけ。


 つまり、てっちゃんの顔を見たくないのだ。

 血がつながらないとはいえ、十七も年上の叔父を好きになったという事実から逃げ出した。おまけに、その叔父の心にはママがいるという複雑さ。


 まさに、源氏物語の光源氏と藤壷と紫の君の三角関係と同じ構図。藤壷と紫の君は叔母と姪という関係だけれど、千年たっても人間は同じことを繰り返す。


 常連さんに薩摩切子の徳利に入った冷酒を運んでいると、からりとお店の戸が開く。


「こんばんは」


 若い女性の澄んだ声が聞こえ、「ようおこしやす」と営業京ことばをわたしは繰り出す。


「いや、六条さんやないの。今日はひとり? 勅使河原先生もきはんの」


 典子さんが親し気に話しかけた人は、白いブラウスにベージュのパンツを合せた上品な佇まいの人。年のころは、三十前後という感じだ。


 その人に、どこかであったような気がする。どこだっただろう。思い出せないまま、おしぼりとお冷を運ぶ。


「あらっ、またお会いしましたね」


 女性はわたしの顔を見て、ふわりと控えめに笑い黒く長い髪を耳にかけた。その艶のある黒髪が揺れるのを見て思い出す。


「あっ、お正月に……」


 受験祈願で訪れた北野天満宮で、てっちゃんのファンだと名乗った人だ。てっちゃんは、旅行者だろうと言っていたけれど、ここにいるということは京都の人だったのだ。


「なんや、薫ちゃんと顔見知りやの」


「顔見知りというか、以前徹舟先生とおられるところに出くわしまして」


 気の利いたことを言おうとしたけれど、どう言っていいかわからずぺこりと頭だけ下げる。


「それにしても、テッシーはええ人秘書にしたわ」


 常連さんが、話に入ってくる。ここでは勅使河原先生も文壇の重鎮であろうとテッシーと呼ばれるただのお客さんである。


「六条さん、東京の大企業の社長秘書してたんやろ。なんでまた京都に来たん?」


 六条さんは、前職を鼻にかけるわけでもなく少しだけ口角を上げて笑う。


「ふふっ、内緒ですよ。しいて言えば、京都の魅力のとりこになったんです」


 典子さんと常連さんの追及を見事にかわし、ミステリアスさだけ残した回答は見事だった。


 わたしは突き出しを六条さんの前におく。今日の突き出しは端午の節句に合わせ、一口サイズのちまき寿司と菖蒲の生麩に焼きそら豆である。


「わあ、きれい。今日は端午の節句でしたね。じゃあ、とりあえずビールで」


 六条さんは、紫の菖蒲の形をした生麩をつまみ小さな口に入れ咀嚼する。そのすべての造作は上品ですべらかだ。


「徹舟先生は、お元気ですか?」


 厨房に引っ込もうとしていたわたしの背中に、声がかかる。


「あっ、はい。元気にしてます」


 というか、ここ二、三日顔を合せてませんが。


「先生の新連載読ませていただいてます。でも、作風が以前と変わったような気がするのですが?」


 はっきり言って、わたしはてっちゃんの作品はそこまで読み込んでいない。身内の小説、とりわけ性描写を含むものは読みづらい。


 なんせ門山賞受賞作は、ヤンデレヒロイン夕子さんと、ドSな光くんがハードSMを繰り広げるのだ。光くんがてっちゃんのビジュアルで脳内再生されるので、読めたものではない……。


「えっと、そうですか?」


 適当なことを言って、逃げようとしたけれど六条さんはまだわたしに語り掛ける。この人も根っからのファンだ。


「先生の作品って、愛に懐疑的なところがよかったんですけど、最近はなんだか愛に信頼を寄せる作風に変わってるようで」


「へえ、てっつんてそんな本書いてんの。俺、読んだことないけど、本人は優しいし愛にあふれたお人やと思てたわ」


 常連さんが、わたしの代わりに六条さんの相手をしてくれる。ありがたい。ちなみにてっちゃんはこの店でてっつん、と呼ばれている。


「優しいから、愛があるとはかぎりませんよね。愛がわからないから、優しいフリをしているだけかもしれませんよ。先生はとても孤独な人だと、私にはわかるんです」


 控えめな六条さんが、断定して言うことに少し驚いた。それだけ、てっちゃんの作品に魅了されているということだろう。


 孤独な人……。てっちゃんは、さみしい人であることに間違いない。イギリス人のママと別れ、その後も次々大事な人と別れを経験してきた。


 わたしまで、てっちゃんから離れようとしている。気持ちを抑えられないのなら、距離をとるしかないと思っていたけれど、それは逆にいえばてっちゃんをまたひとりにするということ。


 わたしはサーバーからビールを注ぐと、六条さんの前におく。


「ありがとう」と言われた六条さんの唇は、赤く蠱惑的に光っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る