第10話 普通のカレー

 わたしの誕生日は五月晴れのすこぶるいい天気だった。その雲ひとつない空の下、てっちゃんと自転車をこいで橋のたもとの商店街を目指す。


 てっちゃんは、着物でも器用に自転車を乗る。コツは、ママチャリに乗ることらしい。


 新しくできたおしゃれなケーキ屋さんではなく、レトロな外観のケーキ屋さんの前で自転車をおいて店内へ入る。


 見た目重視の今どきのケーキではなく、懐かしいケーキがならぶショーケースにわたしは顔を近づけた。


 地元の特産品を使ったほうじ茶や抹茶のシフォンケーキもあるし、黄金色のマロンクリームのモンブランにイチゴショートケーキなどが並んでいる。


 どれも地味な見た目だけれど、おいしさを確実に保証してくれるケーキたちにほっこりする。普段ならそのカットケーキの中から選ぶのだけど、誕生日に買うケーキはいつも決まっていた。


「プチデコレーションください」


 イチゴやオレンジ、メロンのカットフルーツの乗った小さなホールケーキを指さす。お年をめした店員さんが、「誕生日やね?」と確認してロウソクを入れてくれた。


 お金はてっちゃんが払ってくれて、赤いケーキの箱はわたしが受け取る。お店の外に出ると、てっちゃんが指をおって数を数えだした。


「薫が十歳の誕生日からこのケーキ買ってるけど、今年でちょうど十回目やな」


「えっ、もうそんなになるんだ。なんかびっくりするくらい、時間って早く過ぎていくね」


「ほんまやなあ。薫あんなに、ちいさかったのに。今ではこんなきれいになって」


 ポンポンと頭を撫でる手は、大人にするそれではない。


「きれいとか、無理やり言わなくてもいいです」


 払いのけた手が、不服そうにおろされた。


「お世辞やないし。ほんまにそう思ってる」


「はいはい、もういいよ。早く帰ろ」


 わたしは返事を聞かずに自転車をこぎ始めた。カゴに入れたケーキが傾かないようにすることだけに、意識を集中して余計なことを考えない。


 家につくと、てっちゃんとふたりで台所に立つ。ママはダイニングテーブルの上からその様子を見守っていた。


「普通のカレーなんだね。でも、てっちゃんも料理できるんだ」


「僕はこったもの作れへんけど、手順がはっきりしてるものは作れるんや。実験みたいやし」


 てっちゃんは市販のカレールーの箱に書いてある通りにつくる。野菜にお肉の分量はもちろん、水も量って入れる。わたしはめんどくさいので、いつも目分量だけど。


 玉ねぎとにんじんにジャガイモを炒めてから水を入れ、沸騰させてから豚こま肉も入れる。炒めずに後から入れた方が、豚肉が固くならない。そして、お安いお肉にうま味をプラスする隠し味のビーフコンソメを投入。


 これで、牛肉のコクが出るのである。てっちゃんが編み出した、節約カレーだった。カレーを煮込んでいる間に、サラダをわたしがつくる。


「今日は、新ジャガつかったポテトサラダにするね」


 今が旬の新ジャガを、皮付きのままレンチンする。ホクホクの新ジャガをスプーンでざっくりつぶし、塩コショウをふっておく。


 そして、冷凍コーンを解凍せずにそのまま混ぜる。そうすると、解凍する手間とジャガイモの粗熱も取れて、一石二鳥。


 そこに、ハムとキュウリの薄切りも加える。キュウリは塩もみをしない。レンチンのジャガイモは水分が飛んでいるのでキュウリから出る水けでいい感じにしっとりする。


 こってりした味にしたい時は、ここにゆで玉子をつぶして加える。今日の主食はカレーなので、玉子は入れない。


 味付けは、シンプルにマヨネーズと、レモンがある時はしぼり汁。ない時は酢を入れる。


 ポイントは、とにかくマヨネーズをケチらない。カロリーが気になる人は、目をつぶって思いっきり入れることだ。


 ポテトサラダができると、てっちゃんがカレールーを鍋に入れてかき混ぜながら毎年唱える呪文を口にする。


「おいしくなーれ、おいしくなーれ。薫は大きくなーれ」


「なんなの? その言葉」


 ママがわたしの肩に乗り、鍋の中を覗き込んで訊く。


 毎年唱える、てっちゃんのカレーの呪文。もう、十分すぎるほど大きくなった今でも変わらない呪文。


「薫が無事、次の誕生日を迎えられますようにっていう呪文や」


「その呪文、まだ言うの? わたし、もう大きくならないと思うけど」


 この呪文を聞いた、十年分の記憶がよみがえる。新しい小学校になかなかなじめなかったとか、初めて友達を家に連れてきて、てっちゃんが大喜びした時とか。


 思い出すときりがないほど積み上げられたふたりの記憶。


 好きだったママの子供だとはいえ、よくわたしを育ててくれた。


 そうだ、てっちゃんはわたしの親代わりの人なのだ。そんな人に恋愛感情なんて持つのはおかしい。


 おかしいけれど、好きになってしまったものはしょうがない。わたしは鍋をかき混ぜるてっちゃんの背後からぎゅっと抱き着く。


 綿の着物から樟脳しょうのうのスース―する香りがした。


「なんや、どないしたん。甘えて」


 ママのことを思い出してさみしくなった時は、てっちゃんにこうやって抱きついていた。今わたしの中の感情はさみしさではないけれど、そういうことにしておく。


 てっちゃんは、お腹に回されたわたしの手を撫でてくれた。


「てっちゃん、今まで育ててくれてありがとう。ママのせいで突然わたしのお世話することになって、ごめんね」


 肩からママのすすり泣く声が聞こえてくる。


「なんでこんなかわいい薫ちゃんを、あたしおいてけぼりにしたんだろ。いまだにわかんない。てっちゃん、育ててくれて本当に感謝だよ!」


 涙の出ないお猿は、ぴょんとてっちゃんの肩に飛び乗り金の髪に抱きついていた。ちょっとムッとしたけれど、大人なので己の感情は飲み込める。


「育ててくれたって言われても、僕ほとんど何もしてへんで。薫は小学生の時からしっかりしてたし。そんなお世話することなかった。逆に、僕の方こそ薫に感謝や」


「なんで感謝なの?」


 わたしは大きな背中にうずめていた顔をあげる。


「薫といっしょに暮せて、すごく楽しかった。僕ずっとひとりやったし。薫が傍にいてくれるだけでうれしかった」


 てっちゃんがそんな風に思っていてくれたことに、わたしはここにいてよかったのだと少なからず救われる。それなのにママは「ひどいよ……」と、消え入りそうな声でつぶやいた。


「ママ、どうしたの。てっちゃんに感謝してたんでしょ」


 てっちゃんの髪をつかんだまま、ママは「なんか変なこと言った?」ととぼけている。どうしたんだろう、何か思い出しそうなのだろうか。


 このまま三人の生活を続けていきたいわたしにとって、ママには思い出してほしくない。現状維持の家族を続けるために、わたしのてっちゃんへの思いも今日封印する。そう決めたのだ。


「薫は僕にとってずっと、かわいい姪っ子なんは変わらへん」


 ほら、てっちゃんもそう言っている。わたしたちの関係は今まで通り、何も変わらない。


「さあ、食べよ。わたしお腹すいた」


 ふたりとぬいぐるみ一体で迎える誕生日は、うれしさよりも少しだけ苦さがまさっていた。大人になる通過儀礼として、感情を押し殺したからだろう。


 子供と大人の違いは、思ったことを表に出せるかどうか。感情を言葉に表せない子供であっても、泣いたり怒ったりできる。反対に、本当は泣きたい気持ちなのに無理やり笑う子供は、もう子供の枠組みからはみ出している。


 わたしがこの家においていかれた時も、泣くことで自分の気持ちをてっちゃんに受け止めてもらった。


 今わたしは、泣きたい気持ちを押し殺し嘘の笑顔を大好きな人に向ける。でもまさか、てっちゃんも嘘をついていたなんて、この時知るよしもなかった。

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