第11話 隠された心情

 わたしが暮らす家には、めったに足を踏み入れない部屋がある。玄関を入って右側にある分厚い木製のドアの向こう。大学教授をしていたおじいちゃんの書斎である、この家唯一の洋間。


 おじいちゃんといっても、わたしとはなんの血のつながりもない。


 洋館付加住宅では、洋間の屋根も洋風の三角屋根だ。純和風のこの家の中の異空間である洋間は、日常に付随する非日常。


 なんだか秘密の匂いが漂っていそうで、入るたび息を止めてしまう。そんな書斎にわたしが掃除機をかけようと入ったのは、誕生日から数日経ってからのことだった。


 木のドアを軋ませ書斎の中に踏み込むと、締め切ったほこりっぽい匂いが鼻をつく。上げ下げ窓を開けて新鮮な空気を部屋に取り込む。


 重厚なデスクが窓際におかれ、吊り下げられた電灯は乳白色の色目がほっこりするミルクガラスが使われている。


 壁一面に設えられた書棚の中にはびっちりと本が並び、そのほとんどが日本語の古典文学の書籍だった。


 おじいちゃんはイギリス人だけど、日本の古典文学にみせられて生涯をかけて研究した人だ。


 おじいちゃんの写真を見たことがあるが、着物を着て縁側に座る姿は高すぎる鼻以外日本人にしか見えなかった。そんなおじいちゃんの隣におばあちゃんが寄り添う姿は、わたしの理想の夫婦像そのもの。


 わたしにはパパがいない。典子さんも離婚を繰り返している。こんな環境では理想の夫婦なんて、色あせたセピア色の写真の中だけにしか存在しない。


 はたきで本棚のほこりを落とし、掃除機をかける。デスクの重い椅子を引いていると、デスクの一番下の引き出しが少しだけあいているのに気が付く。


 閉めようと引き出しを押しても、中で物が引っかかっているようでちゃんと閉まらない。推してダメなら引くしかなく、引き出しを開けると古いハンコが並んでいた。


 でもそのハンコが不自然に乱れ、奥に何か無理やり物を詰め込んだ形跡がある。わたしは腕を伸ばし引き出しの奥をさぐる。きっと詰め込んだものが引っかかって引き出しが閉まらないのだろう。


 指先に小さな箱があたり、むんずとつかみ取り出すと、水色のリボンがかかった正方形の箱だった。どう見ても指輪が入った箱に見えるそれは、おじいちゃんの遺品にしては新しい。ごく最近の物のように見える。


 この部屋を頻繁に利用しているのは、てっちゃんだ。てっちゃんがここに入れたのは間違いないだろう。元カノへのプレゼントを渡しそこねて、ここに突っ込んだのだろうか。


 好奇心に駆られ他に何か手がかりはないかと、また引き出しの奥を探ると底に文庫本が入れられているのをみつけた。


 上げ下げ窓から入る陽の光の下で見ると、与謝野晶子訳の源氏物語だった。


「なんでこんなところに、本が押し込んであるの」


 隠すように入れられた源氏物語をパラパラとめくると、光源氏の恋人である朧月夜とはじめて出会うシーンのページの端が折られていた。


 誰かの意志が引っかかったページに指を滑らすと、ざらりとした紙の感触が記憶を呼び覚ます。朧月夜の晩にほろ酔いのてっちゃんと交わした会話を、鮮明に思い出した。


 わたしが口にした和歌の一節『朧月夜に似るものぞなき』が、朧月夜の台詞として本の中に書かれていた。


 わたしがこの続きを指で追っていくと、てっちゃんが口ずさんだ和歌も載っていた。


『深き夜のあわれを知るも入る月のおぼろけならぬちぎりとぞ思う』


 誰が詠んだ歌か教えてもらえなかった歌は、光源氏の歌だった。


 宮中での宴の後、さ迷う光源氏は『朧月夜に似るものぞなき』と歌う若々しい女性の声に、思わずその人の袖を取り歌を詠んだ。


 そして二人は、陥るべきところへ落ちた。つまり、男女の関係になったということ。


 てっちゃんは、ここが宮中じゃなくてよかったと言っていた。それはあの晩、わたしたちが駅の帰り道ではなく宮中で出会っていたら、朧月夜と光源氏のように男女の関係になっていたと言うこと?


 ……いやいやいや、考えすぎだ。てっちゃんのことだ。むかし指輪を渡しそびれた人に同じようなことをしていたのかもしれない。きっとそう。ここには叔父の黒歴史がしまわれているのだ。


 姪っ子がパパラッチ根性で、安易に覗き見てはいけない。わたしはあわてて文庫本と箱を放り込み、引き出しをしめたのだがきちんと閉まらない。まだ、何か引っかかっているのか。


 多少閉まっていなくても、放っておけばよかったのに、ざわつく心がスルーできない。目を閉じ『ごめんなさい』と誰かに謝り、もう一度引き出しを開けた。


 引き出しに入っていたものを半分外へ出し、手をつっこみ奥をさぐる。そうすると、引き出しとデスク本体の隙間に紙が挟まっていた。くしゃくしゃになった紙を引っ張り出して、広げてみると、てっちゃんの字で「薫、誕生日おめでとう」と書かれていた。


 この指輪は、わたしの誕生日プレゼント?


 こんなものを何時買ったのだろうと思ったら、ママの声で答えは脳内再生された。


『デートとかじゃないよ。買い物に行ってたんだって。夕方には帰ってきたから』


 ゴールデンウイークのてっちゃんのお出かけは、この指輪を買いに行っていた?


 しわだらけの紙をおいて、わたしは小さな箱のリボンをとく。蓋をそっと取り、白い指輪ケースをパカリと開けると、細い銀色に輝くリングの中央に小さな石がはめこまれた指輪が現れた。宝石にくわしくないわたしでも、光り輝く石がダイヤモンドだとわかる。そして、男性から送るダイヤの指輪は結婚指輪だという認識ぐらいもっていた。


 てっちゃんがわたしの誕生日プレゼントにダイヤの指輪をおくろうとしたけれど、渡さずに引き出し奥深くに隠した。


 どうして?


 てっちゃんがいつもと違うスペシャルな誕生日にしようとしたのに、『いらない。今まで通り、何も変えないで』とわたしは言った。


 ゴソゴソとわたしはエプロンのポケットに入れたスマホを取り出し、朧月夜にてっちゃんが口ずさんだ光源氏の歌の訳を検索した。スマホの検索は何でも教えてくれる。


『深き夜の趣をあなたが知っているのも、私と出会うというはっきりとした前世からの運命があったからでしょう』


 意味はわかったけれどこの歌を詠ったてっちゃんの心情を、スマホは教えてはくれなかった。

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