第四章 夢の浮橋

第1話 梅の実

 六月に入ると雨模様の日が続き、とうとう梅雨入りとなった京都。盆地特有のジメジメムシムシとした不快な気候が、日に日に体にこたえる日々だ。


 肉体の疲労が精神まで蝕まないのは、若さの特権であると思う。それどころか、体を動かすことによって、精神は浄化される。


「薫ちゃん、これぐらい採ったらいいの?」


 曇り空の下、我が家の梅の木に登った頭木くんが、梅の実を手にしてわたしに訊いてくる。


「ありがとう。あんまり枝の先の実は採らなくていいよ。危ないから」


「もったいないし、手の届くところまでがんばってみる」


 妙にはりきっている頭木くんに、感謝しかない。


 毎年梅雨入りした時期に、てっちゃんと庭の梅の実を取るのだけれど、今年のてっちゃんは忙しい。担当編集が変わり、四十代の男性になった途端あれこれと仕事が回ってくるようになった。


 のんびりまったりしていたいてっちゃんとしては、そこまで執筆以外の仕事をしたくないのだけれど、自分から担当を変えてもらった手前新しい編集さんに従うしかない。


 ちなみにてっちゃんに迫っていた元担当の朧さんは、編集部にいづらくなったのか、退職してその後どうしているのかわからない。


 そういう事情で、今てっちゃんは東京へ行っていた。男手がないと、梅の収穫は難しい。ということで、急遽頭木くんと里花ちゃんに手伝いを頼んだのだ。ふたりは、私の家に来たがっていたのでちょうどいいと思ったのだが、里花ちゃんには断られた。


 なんでも、東京にいる彼氏が遊びにくるとか。里花ちゃんは高校の同級生だった彼と進学先がバラバラになり、ただいま遠距離恋愛中だった。


「そろそろお昼にしようか。そうめん用意してくるね」


 わたしは樹上の頭木くんに声をかけ、台所へ向かう。ダイニングテーブルの上では、お猿のママがにやけた顔――に見える――をして座っていた。


「今日はふたりっきりだね。なんかいい感じじゃない」


 たしかにふたりっきりだが、別に他意はない。手伝いに来てもらっているのに、色眼鏡で見るママがおかしい。ぼそぼそと外にいる頭木くんに聞こえないよう、声をしぼる。


「別に、何にもないよ。見てたらわかるでしょ。梅の収穫してるだけじゃない」


 わたしはお鍋にたっぷりの湯をわかす。


「うんうん。そうだね」


 絶対そう思っていないであろうママの相槌が、気にいらない。ここでわたしが突っかかってもからかわれるだけなので、反論しないでそうめん作りに集中する。


 今日はせっかく梅の収穫に来てもらっているのだから、梅干し料理にした。しかしわたしもいっしょに作業するので、手早くできる料理ということで梅そうめんにしたのだ。


 去年収穫した自家製の梅干しは種を取って細かく刻みペースト状にして、そこにめんつゆを入れて混ぜておく。


 生姜と大葉などのお好みの薬味を千切りにしてごま油をかけてなじませる。そうめんがゆであがったら、水気を切って梅のめんつゆをかけ、上から薬味を乗せて完成。


 白ゴマや刻みのりなどをトッピングしてもよし。これで、不快な暑さも吹っ飛ぶ、さっぱり梅そうめんの出来上がり。


 後は、去年収穫した冷凍梅をつかった梅ジュースとそうめん、朝に握っておいた梅オカカおにぎりとともに頭木くんにお出しした。


「すっげー、うまい! ほんと、薫ちゃん料理上手だよね」


 大仰に喜ぶ頭木くんの姿を見ると、作る喜びがふつふつと湧いてくる。料理というものは、人がおいしそうに食べてもらうまでがワンセットだと思う。


 最近の我が家の食卓は、静かなものだった。お互い奥歯に物が挟まったような、よそよそしさがわたしとてっちゃんの間に漂う。


 普通、普通にしようとすればするほど空回りしているような雰囲気だ。そのうち普通ってどんなだっけ? というループに陥っている。


 そんな食卓ではささっと食事をすませるので、感想やおいしいという言葉も出てこない。


 頭木くんのオーバーアクションに照れつつも、わたしもそうめんをすする。梅の酸っぱさと薬味が絡み合い、ただのそうめんが複雑な味わいに変身してお口の中が幸せだ。


 もっと熱くなる夏場はここに、塩昆布を入れて塩分を足してもいいかもしれない。


「そうだ、こないださ、教えてもらっただし巻き玉子つくってみたんだ。ちょっと焦げたけど、うまくできたよ」


 頭木くんは豪快にそうめんをすすりながら、わたしが教えてあげた料理の報告をしてくれる。春に頭木くんと里花ちゃんに料理を教えると約束したので、里花ちゃんの家で料理教室を開催した。


 極々簡単なメニューを教えただけなのだが、ふたりは思いのほか悪戦苦闘していた。今は冷凍食品や便利なレトルトがあるのだから、わざわざ自炊しなくてもいいのに、ふたりはせっかくだからとがんばって覚えてくれて、感謝までされた。


 当たり前のようにしてきたことを、誰かに褒められると言うのはうれしいものだ。


「よかった。自分でつくったご飯っておいしいでしょ」


 頭木くんは、曇り空の向こうに隠れている太陽のように笑って、おにぎりを頬張った。


「あのさ、薫ちゃんにはいろいろお世話になってるから、お返しっていうかなんていうか、夏休みに愛媛の俺んち遊びにこない? 海が近いから海水浴できるよ」


「お返しって、今日手伝ってもらってるのに。いいよそんな」


「あっ、ひとりじゃなくてもちろん里花ちゃんも誘ってだよ。里花ちゃんくるかどうかわかんないけど」


 頭木くんは、わたしの方を見ないで庭の梅の木ばかり見ている。なんだか、ちょっとだけ必死さが伝わり、すぐに断るのも悪いと思う。


「えっと、いっしょに住んでる叔父さんに訊いてみるね。わたし、友達の家に泊まったことないし、一応」


 大学生にもなって外泊もしたことがないわたしに、頭木くんは引くだろうと思ったら。


「ほんと? ちゃんと訊いてね。遠慮とかいらないし。俺の両親すっげー気さくな人たちだし」


 全力で喜んでくれたので、引くに引けなくなった。頭木くんはお腹が満たされたのか、いろいろこの家のことについて質問を始めた。


「それにしても、すごいうちだよね、ここ。俺むかしトトロ大好きで、こういう家に住んでみたかったんだ。なんか、不思議なものがいっぱいつまってそうでさ」


 たしかにあの洋館の三角屋根の下には、不思議というか秘密が隠されている。デスクの奥にねじ込んだ、てっちゃんとわたしの気持ち。


「古いだけなんだけどね」


 自分が出した声のトーンの低さに、びっくりした。けれど、頭木くんは気にしていない。


「古くて珍しいからか、さっき俺が来る時、中をのぞいてた人がいたよ」


「えっ? そうなの」


「うん、俺が近づいて行ったら、あわてて神社の方に歩いて行ったから観光客みたいだった。きれいなかっこした女の人だったから、泥棒でもなさそうだったし」


 近所の神社は世界遺産なので、観光客だろう。まあたまに、外からしげしげと見られることはある。


「木になってる梅は大体採ったし、後はどうすればいい?」


 そうめんもおにぎりも食べ終えた頭木くんが、これからの作業を確認する。


「あとは、軽く木をゆすってくれたらいいだけ」


 木の下にはゴザを敷いているので、落ちた実を拾う。


「たくさん採れたけど、これどうするの?」


「ご近所さんに配って、残ったのは梅干しにしたり、梅ジュースにするんだよ」


「えっ、梅干しまでつくれるんだ。まるで……」


「あっ、あばあちゃんみたいって思ったでしょ」


「いやいや、こんなかわいいおばあちゃん、いないから」


 頭木くんが誤魔化すように、縁側にのそべっていた猫のミヤを撫でると、ミヤは迷惑そうに片方だけ目を開けた。てっちゃんに体を撫でられると喜ぶくせに。


 毎年てっちゃんとしていた梅の実とりを、今年は頭木くんとした。来年は誰としているのだろう。

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