第8話 ストーカーは
「朧さん、どうしてここにいるんですか?」
てっちゃんの元編集で、結婚を迫っていた朧さんが驚いた表情でわたしを振り返った。出版社を退職して、その後どうしてるかわからないと聞いていたが、まさか京都にいたなんて。
朧さんは、出版社勤務の時のビシッときめたパンツスーツではなく、ラフなTシャツとワイドパンツにリュックを背負い、極々カジュアルな姿だった。
「びっくりした。薫ちゃんこそ、どうしてここにいるの」
しらばっくれる気だろうか。無言電話や、張り紙のいたずらは朧さんかもしれない。でも、いきなりストーカー呼ばわりもできないので、わたしはいったん冷静になることにした。
「わたし、この大学に通ってるんです」
「あっ、そうだったんだ。私も、ここの院に秋から通うのよ」
「えっ、院に? なんで……」
「もう一度、文学を勉強しようかなーって。編集って売ることを一番に考えないといけないからさ」
たしかにここの文学部には、明治の文豪の研究者がいて史料もそろっていると聞いたことがある。
朧さんはまぶしそうに、光源氏と紫の君が出会った北山の濃い緑の稜線をのぞむ。
「なんかいろいろ忙しすぎて、視野が狭くなってた。わたし、小説が好きで編集になったのに何してるんだろって。徹舟先生にフラれて一気に目が覚めたって感じ。薫ちゃんにも変なことお願いしたよね。あの時はごめんね」
すごい。失恋も自分の肥やしにして立ち上がるなんて、強すぎる。
「いえ、こちらこそ」
朧さんのことを疑っていたわたしは、すごすごと視線を石畳に落とす。
「今は、勅使河原先生の秘書のバイトしてるの。やっぱり現役の作家さんとの縁は切りたくないしね」
「秘書って、六条さんもいるのに……」
勅使河原先生、二人も秘書を雇えるほどもうかっているのだろうか。
「ああ、その六条さんって人、五月の終わりにやめたって。なんでも結婚するとかで」
「六条さんが結婚? 知りませんでした」
ゴールデンウイークにお店であった時には何も言っていなかったのに……。というかそんな個人的なことを、あのおしとやかな六条さんが言うわけもない。
軽い人なら、うれしくて言いふらしそうだけど。
「そのあと、先生の姪の末莉さんが秘書してたんだけど、ちょっとトラブルがあったみたいですぐやめたって」
末莉さんは秘書をしていたから、うちに花を届けてくれたのか。でも、トラブルというのが気になる。
「あの、二週間ほど前にうちに先生からってお花届けてもらったんですけど、その時は秘書をされてたんですか?」
「七月には辞めてたみたいよ。でも、おかしいな。詳しくは知らないけど、先生に顔向けできないようなことしたって聞いたから。そんな届け物、末莉さんにお願いするかな」
顔向けできないようなこと……。それなのに、先生からと言ってプレゼントを持って来た。
あのアレンジメントの花カゴはなんの意味があったのだろう、なんの目的で……。
「あの、すいません。いきなり呼び止めたりして。失礼します」
「まあびっくりしたけど。でもまた学内で顔見かけたら、声かけて」
朧さんの朗らかな返事を背中に受け、わたしは校門へ急いだ。末莉さんはてっちゃんにお見合いを断られて、ストーカー行為に及んだのかもしれない。
てっちゃんに、このことを教えないと。スマホを取り出し、電話しても出ない。時刻は昼前。きっと、スマホは本や原稿用紙の下に埋もれていて、持ち主はまだ寝ているのだろう。
こうなったら、直接行くしかない。わたしは地下鉄に乗ると、リュックの中からママがどこ行くのと訊いてきたので、ひとこと家に帰ると小声で言う。
どうか、てっちゃんが無事でありますように。ただ寝ているだけであることを祈った。
*
建付けの悪い玄関戸に鍵を差し込み、あわてて回して久しぶりの我が家に帰宅した。ムッとする締め切った熱い空気が、駅から走ってきた汗だくの体を圧迫する。今すぐ家中の窓を開け放ちたいところだが、肩にかけていたリュックを乱暴に玄関に投げ捨てた。中からママの「イタ!」という声が聞こえたが無視する。
なつかしい我が家の匂いを嗅ぎつつ、感傷に浸る暇もなく狭く急な階段をのぼる。途中てっちゃんの蔵書を足にひっかけ雪崩を起こした。
そんなことに気を取られてる場合ではなく、わたしは二階のてっちゃんの部屋の引き戸を乱暴に引く。
踏み込んだ足元で、ミヤが久しぶりとでも言うように、みゃあと鳴いた。わたしは、ミヤの頭を撫で部屋を見まわす。
相変わらず物で散乱した部屋の中で、てっちゃんはスース―と寝息を立てて眠っていた。クーラーのついた快適な空間で眠る、眠り姫ならぬ眠り王子の麗しい顔を見て全身の汗が引き、かわりに安堵のため息をもらした。
そのかすかな吐息に、王子は目を覚ます。まつ毛がびっしりと生えた瞼を重たげに、ゆっくりゆっくり開き、視点の合わない青い瞳はぼんやりと天井を見つめる。ふっとのど仏が浮き上がった首を回し、わたしを視界にとらえると蓮の花から朝露が滴るような清々しい顔をする。そして、「薫」とかすれた声で名前を読んだ。
その刹那、ポロポロとわたしの頬にも朝露のような涙がしたたり落ちた。
ああ、やっぱりこの人のことが好きだ。たった数週間離れていただけなのに、思いが深くなっている。
「なっ、なんで泣いてんの。どっか痛いんか!」
てっちゃんはがばりと起き上がり、わたしの体をあちこちさすって怪我がないかたしかめた。その慌てぶりがうれしいやら、おかしいやら。わたしはクスクスと笑い出す。
「なんや、泣いたり笑ったり。忙しいなあ」
見た目ははかなげで霞を食べて生きてそうだけど、中身はのん気でちょっとさみしいてっちゃん。
「あのね、今日大学で朧さんにあったの」
「えっ、なんかされたんか?」
てっちゃんも、朧さんをうたがっていたようだ。
「詳しい説明は省くけど、勅使河原先生とお花届けてくれた末莉さん、トラブルになってたんだって」
「トラブル? 僕、知らんな」
「トラブルを起こしてたのに、先生からってプレゼント持ってくるのおかしいよね。ひょとしてストーカーは、末莉さんなのかも」
てっちゃんははだけた浴衣の襟をなおしつつ、金色の髪をどこぞの名探偵のようにかきむしった。
「ちょっと寝起きで、頭うごかへん。とりあえず、シャワーするわ」
ふたりで階段を降りていくとママがリュックの中から脱出して、げた箱の上の花カゴを取ろうと細長い腕を一生懸命伸ばしていた。
「これ、気持ち悪いよね。捨てようか」
わたしがそう言うと、てっちゃんは花カゴを取り台所まで持って行く。
「とりあえず、シャワーしてから考える」
そう言い残して、脱衣所に消えて行った。わたしは、その間縁側の戸をあけ放ち空気を入れ替える。
庭を眺めると、夏みかんの木に緑色の実がたわわに実っていた。そろそろ、たい肥を入れる時期だ。暑い夏に肥料を入れて、たっぷり水分をやると甘さが増す。
手間暇かけないと、収穫する春においしいみかんが食べられない。今日、てっちゃんとたい肥を入れようかと考えていると。
「薫ちゃんが乱暴にあつかうから、ママなんだか眠たくなっちゃった」
ママはわたしにブツブツ文句を言い、居間の畳の上に寝っ転がる。そんなママをまたいで、台所に向かうとダイニングテーブルの上においた花カゴが目に入った。うちの台所は北側なので昼間でも薄暗い。ライトをつけていたのだが、その真下においた花カゴの中で何かが光っている。
なんだろうとのぞき込むと、小さくて黒いものがブリザーブドフラワーの影にかくされるように入れられていた。
「何これ?」
つまみ出してしげしげとライトの光をあてて見ていると、てっちゃんの浴びるシャワーの水音しかしない室内に、縁側からガタっと物音が響く。
びくっと体を緊張させて縁側に視線を走らせると、真っ白な女の人が縁側から白いパンプスのままあがってきた。
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