第9話 侵入者

 青白い顔に白い服、長い髪が乱れ顔を半分隠しているのは幽霊だと思った。ママがぬいぐるみになって帰ってくるぐらいなんだから、普通の幽霊もいるだろう。


 でも、幽霊って足がないってよく言うけれど、この人にはちゃんと足がある。おかしいなと思っていたら、悲鳴がおくれた。


 ぼんやり突っ立っているわたしに、その人はすごい勢いで近づいてきて、あっという間に羽交い絞めにした。


 背中にその人の体温を感じて人間なのだと気づくと、ようやくわたしの口から悲鳴がもれる。


 脱衣所から、「薫、どないしたんや!」とてっちゃんの声が聞こえ、すぐに浴衣だけ引っかけた姿で出てきた。


 髪から水滴を滴らせたてっちゃんの姿を見て、ほっとしたのもつかの間。わたしの首元にナイフが突きつけられた。暑くて背中へ汗が伝っているのに、首に当たるナイフの冷たさで体がふるえた。


「先生、こんにちは。水もしたたるいい男ですね。眼福です。ありがとうございます」


 頭のすぐ後ろで発された、とびきり明るい声に聞き覚えがある。


 てっちゃんは、青い目を限界まで見開きわたしの背後を凝視する。


「あんた、六条さん?」


「うわあ、うれしい。覚えてくださってたんですね」


 人の首にナイフを押し付けながら、六条さんは推しに会えたファンのように歓声をあげた。六条さんが、ストーカーだったの?


 でも、朧さんが言うには六条さんは結婚するから秘書をやめたって。結婚する相手がいるのに、てっちゃんにストーカーなんてするはずない。


 何かの冗談で、わたしにナイフを向けているのだろうか。どっきりとか?


 こんな状況をすこしでもポジティブにもっていこう。そんな努力もむなしく、心臓に爪をたてるような高音が耳へ流れ込んできた。


「さあ、お迎えに参りました。私と結婚してください」


 何言ってるの、この人。私は首を右側に傾け、六条さんの顔を見た。キラキラと輝くようにいい顔をして笑っている。


「はっ? 何わけのわからんこと言うてん。あんたと結婚なんか、するわけないやろ。はよ、薫を放して」


 てっちゃんは、しごく真っ当な事をいう。


「やっぱりこの子、邪魔だなあ。せっかくこの家を出て、典子さんのとこに行ったのに」


「なんでそんなこと、知ってるんや。それに、えらいタイミングよく侵入してきたな」


「あ、あの花カゴの中に、変な機械が入ってた」


 わたしは声を震わせ、目線だけでダイニングテーブルの上に落ちている小さな黒い物体を示した。てっちゃんは、それを一瞥して鼻をならす。


「盗聴器か。末莉さんまで利用して」


 六条さんは、てっちゃんの言葉にくくっと喉をならす。


「利用したなんて、人聞きの悪い。お金わたして、頼んだだけですよ。彼女、勅使河原先生のお金横領して、ホストに貢いでたので」


 末莉さんと勅使河原先生のトラブルって、横領だったのか。


「ほんと、先生があの人の縁談断ってくださってうれしかったです。まあ当然ですよね、先生の運命の人は私なんですから」


 一歩も動けないてっちゃんに向かって、六条さんはとうとうと自分がいかに導かれてここにいるかを語り出した。


「私、先生の門山賞の受賞式を見てなんて美しい人なんだって思ったんです。それから、先生の著作を全部読んで、とうとう出会ったんだって思いました。私と同じ孤独を分かち合える人に」


「作品を読んでくれて、ありがとう。でも僕とあんたは同じやない」


 てっちゃんの声に、怒りが滲んでいる。


「先生は、作品の中で徹底的に愛を否定されてましたよね。愛なんていずれ消えてしまうものより、体に刻み込む痛みこそ信じられるって」


「まあ、『骨と青春』はそんなような内容やけど」


「好きだ愛してるって言ったって、そんなの一時の風邪みたいなもので、熱が下がったらみんな離れていくんですよ。先生の孤独な魂を理解できるのは、私だけです」


「違う、僕の心をわかるのは僕だけや。あんたとは絶対結婚せえへん。妄想から、はよ目覚め」


 六条さんが、ナイフを握る手に力を入れた。


「何でですか? 私たち運命で結ばれているのに。先生のこともっと知りたくてお正月に京都にきたんです。そうしたら北野天満宮で会えたんですよ。もう神さまに導かれたとしか言いようがありません」


「ただの偶然や。運命でもなんでもない。薫は関係ないやろ。今すぐ放せ。そしたら、警察には通報せえへんから」


「薫、薫って。やっぱり、この子は特別なんですね」


 妙に明るかった六条さんの声音が一段さがる。


「薫の手に怪我させたん、あんたか?」


 大学でぶつかった人って、六条さんだったのだ。里花ちゃんはダボっとした服装で男か女かわからなかったと言っていた。わたしを、見張ってたの?


「本当に若い子って馬鹿ですよね。先生のことイケオジとか簡単にカテゴライズして。そんな安っぽい言葉で、先生を分類してほしくなかった。先生は唯一無二の存在なのに。だから、お仕置きしてあげたんですよ」


 あの時、どんなことをしゃべっていたかなんて、もはや覚えていない。六条さんの八宮徹舟という理想を、わたしが汚したから剃刀で切られた。


 そんなことぐらいでこの人は簡単に人を切りつける。今わたしの首に当てられたナイフも、いつなんどき首を切り裂くかわかったものではない。


 そう思うとブルブルと全身は震え、悔しそうに顔を歪めているてっちゃんの姿がだんだん滲んできた。ダメだ。平気なフリしないと。


 わたしがおびえてるって思ったら、わたしを助けようとてっちゃんが何をするかわからない。てっちゃんに危険なことをしてほしくない。


 そう思っても、こらえた涙はあふれ出し、頬をつたった。


「わかった。わかったから。結婚でもなんでもしたる。だから、いますぐ薫を放してくれ!」


 てっちゃんの悲痛な叫びに、六条さんは嬉々として待ってましたといわんばかりにくいつく。


「じゃあ、この子に買ったダイヤの指輪ください。先生がデパートで指輪買ってるの見かけたので、てっきり私にくれるのかと思ったのに」


「僕のこと、つけてたんか」


 その問いに六条さんは答えずに、しゃべり続ける。


「指輪、まだ、あげてないんでしょ。先生、この子は姪なんですから。いくら血がつながってなくても、ダメですよ」


 この人、そんなことまで知ってる。わたしたちの関係を調べたり、花カゴに仕込んだ盗聴器でうちのこと全部聞いていたんだ。


 でも、それならママの存在も知っているんじゃ……。


「わかった。今取りに行く。その間、薫を傷つけたら、殺すぞ」


 ドスのきいた声に、震えあがるどころか、六条さんは歓声をあげた。


「やだ。先生の荒々しい声、超レア……。萌える」


 こ、この人完全にいってる。おかしい……。こんな頭のおかしい人に、羽交い絞めにされて、わたしは何もできない。


 てっちゃんがわたしに買ってくれた指輪までも、奪われる。悔しい…悔しい……。

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