第10話 解放

 指輪を取りに階段をのぼっていくてっちゃんの足音が、キイキイと胸を軋ませる。六条さんの勝ち誇った声が、わたしの耳の奥をひっかいた。


「先生、こんな子より私を選んでくださった。神だわ!」


 その声が一変して、ジメジメと恨み節を垂れ流す。


「先生が指輪買ってる時、それとなく近づいて、店員との会話聞いてたの。ひょっとして私への愛を語ってらっしゃるんじゃないかって。

 店員に贈り主の好み聞かれて、若いけどしっかりしててシンプルな服装を好む子なんです。薫には、どれが似合うかなあって。あなたの名前をさも愛おし気に言ったのよ。あなたが先生のこと理解してるのなら、私こんなことしなかったのに。

 あなたが悪いんだからね。ううん。違う。あなたは私の引き立て役」


 感情の起伏が激しく、話に脈略もない。つらつらと語る背後の六条さんに視線を走らせると、完全に目がいっていた。何も見ていない。見ているのは、自分の中の妄想だけ。


「北野天満宮で見た時ただの子供だと思ってたのに、先生に愛されてどんなに大人になったかと、その夜たしかめに行ったの。典子さんのところで会ったでしょ」


 そうだ、てっちゃんがお出かけした日――指輪を買った日――の夜、六条さんはひとりで典子さんの店にやってきた。


「そうしたら、どうよ。先生の作品なんかろくに読んでいない、気の利いた会話もできない、なんとも凡庸な子供。そんな子、先生の相手にふさわしくない。わたしに勝てるわけないのよ」


 クククっとさも愉快に笑う声が、遮られた。


「勝手なこと言わないで。薫ちゃんは、すっごいいい子なんだから」


 忽然と背後から聞こえてきたママの声に、六条さんの体はびくりと反応する。


「な、何この声。門は開かないようにしてあるし、この家には三人しかいないのに」


 うろたえた六条さんがわたしを抱えたまま、体を反転させる。キョロキョロとあたりを見まわしても誰もいない。ただ、お猿のぬいぐるみがちょこんといるだけ。


 またママの声が聞こえてくる。


「あんたに、てっちゃんの何がわかるのよ。最近現れたニワカのくせに。あたしなんて、もう二十年以上てっちゃんのこと好きなんだから」


 そう言い切ると、お猿のぬいぐるみはとてとてと歩き始めた。


「なに、これ? ぬいぐるみが、動いてしゃべってるの? えっ、どんなしかけ。ロボット……」


 六条さんは動くぬいぐるみが近づいてきて、あきらかに怯え始めた。


「あたしは、薫ちゃんのママよ。死んでるけどね」


「はっ? 何それ。時々、あなたたちの会話がちぐはぐで、誰かほかにいそうな気配はしてるのに、誰の声も聞こえなかったのって、幽霊だったから?」


 幽霊が鏡に映らないように、盗聴器はママの声を拾わなかったってことだろう。


「てっちゃんと薫ちゃんは、お似合いなの。あたしはてっちゃんと家族になれなかったけど、薫ちゃんはなれるんだよ。あんたみたいなストーカーは、ひっこんでろ!」


 ママはずかずかと短い足で、六条さんに突進してきた。


「いやー! 近づかないで、化け物!」


 幽霊が憑依したお猿のぬいぐるみの突撃に、六条さんは恐れおののきわたしの首に当てていたナイフをママに向かって振り回す。


 わたしがナイフから解き放たれた瞬間、誰かに腕を引っ張られバリバリっと何かがはぜるような大きな音がした。すると、六条さんが声にならない悲鳴を発し、もんどりを打ってその場に崩れ落ちた。


 その傍らにはスタンガンが落ちている。失神したのではなく、体が痙攣して動けないようだ。


 六条さんから離れた縁側まで引っ張ってこられ、肩を強くつかまれた。


「薫、どっこも怪我ないか!」


 大丈夫と返事をする間もなく、抱き寄せられていた。てっちゃんの腕の中で、心配させまいと気丈にふるまおうと思ったけれど、濡れた浴衣に頬を摺り寄せ泣き崩れてしまった。


「こ、怖かった……。すっごく、怖かった」


 ボロボロと滝のように涙が吹き出し、顔があつい。その火照った顔を、てっちゃんの冷たい手が包み込んだ。


「どこも、怪我してへんか。なんともないか。警察に通報したし、もう大丈夫や」


 涙でぬれた青い瞳が、数センチの距離でわたしを食い入るように見つめている。そういえば、てっちゃんの泣き顔なんて初めて見た。


 てっちゃんを泣かすほどの存在なんだ、わたし。すごく、すごく、大事な存在なんだ。わたしもこの世で一番、てっちゃんのこと大切だよ。


「てっちゃんこそ、無事でよかった……。あのね、好きだよ……大好きだよ」


 やっと言えた。ぐずぐずと言えない理由をならべて、ごまかし続けた本当の気持ちを。


「ああ、僕も好きや。薫のいいひん世界で、生きていける気がせん」


 わたしの涙をぬぐってくれる指先が、小刻みに震えていた。わたしを失ったかもしれないバッドエンドの世界に、怯えているようだった。


 てっちゃんの唇からこぼれた『好き』と、さっきママが六条さんと対峙した時に口走っていた、『二十年以上てっちゃんのこと好きなんだから』が頭の中が結びつく。


「ママって、てっちゃんのこと好きだったの?」


 てっちゃんは、ふっと息をもらし柳眉を下げた。


「うちの親父と典子さんが離婚してから、美夜ちゃんに何回も好きや付き合ってって言われてきた」


「てっちゃんが、ママのこと好きだったんじゃなかったんだ。わたし、てっきり」


「そら好きやったで。義理でも姉として好きやった。僕、美夜ちゃんとはずっと家族の関係でいたかった。男と女の関係になったら、どうせすぐ壊れると思ってたし。僕の周りに、悪い見本がいっぱいやったから」


 六条さんも同じことを言っていた。愛なんて風邪みたいなもんだって。だから、てっちゃんの小説に共鳴してしまったのかもしれない。


「でも、じゃあなんでママのパンプス大事にしてたの?」


 花火の日に片方だけママが残していったパンプスは、てっちゃんのママへの執着だと思っていたのに。


「覚えてへんの? 薫が小学生の頃ガラスの靴みたいって、シンデレラごっこしてたやろ。僕が持つ靴に足入れて、ふたりでダンス踊ったりして。年の離れた妹と遊んでるみたいで、楽しかったわ」


 ……思い出した。小学生の足にママのパンプスはぶかぶかだったけれど、今ならぴったり合うだろうか。


 とんとんと猫の足音がして、ミヤが騒ぎの収まった一階に降りてきた。喉を鳴らしててっちゃんの背中にすり寄ってきた。


「花火の日に、薫を連れてきた美夜ちゃんは、お母さんの顔しててすごく幸せそうやった。ひとりで育ててるのは、そら大変そうやったけど、羨ましかった」


「だから、わたしのこと育ててくれたの?」


「そうや。美夜ちゃんみたいに薫と家族になりたかった」


「家族になれたかな、わたしたち」


 てっちゃんは頬に触れていた手を離し、もう一度強くわたしを抱きしめた。


「赤の他人でも家族になれる。家族っていろんな形があるんや。僕らは叔父と姪やったり兄と妹や恋人同士みたいに、形をさまざま変えてゆく。そんな家族になろう」


「うん。うん、なりたい」


 浅い呼吸を繰り返していた体が深く息のできるようになると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。


「ママ、ママとわたしおんなじ人を好きだったんだね。やっぱり親子だよ」


 ずっと大人しくしゃべりもしないままに、語り掛けたけれど返事がない。


「ママ? いつもみたいに、突っ込まないの」 


 視線を台所のあたりに走らせると、まだ動けない六条さんの傍にお猿のぬいぐるみが落ちている。そのポッコリ膨れたお腹には、深々とナイフが突き刺さっていた。

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