第4話 朧月夜

 マイケルが食事の片付けをしてくれお猿に投げキッスをして帰っていくと、ダイニングテーブルの上にスマホが忘れられていた。


「もう、あの人こういう抜けてるとこあるんだよねー。どうしよう。気づいて取りにくるかな?」


「いいよ、わたし届けてくる。自転車で追いかけたら間に合うよ」


 そう言って出かけたものの、足の長いアメリカ人に追いついたのは駅に近いマイケルのマンション手前だった。


「ごめん、ごめん。助かった。全然気づかなかったよ。家まで送る」


 時刻はまだ九時を少し回ったところ。女の子が一人で歩いていても危ない時刻ではない。


「大丈夫です。自転車だし。五分もかかりません」


「そう? でも、気をつけてな」


 マイケルは手を振って、わたしを見送ってくれた。駅をすぎ、川沿いの自宅までの道を走っていると、着物姿に金色の髪の見慣れた後ろ姿を見つけた。


「てっちゃーん! 今帰り、早いね」


「薫、こんな時間にどうしたんや」


 マイケルといい、過保護だ。わたしは自転車から降り、てっちゃんの隣を歩く。街灯の青白い光を受け、てっちゃんの横顔は少し赤い。ほろ酔いというところだろう。


「マイケルがスマホ忘れて届けただけ」


「そんなん、ほっといたらええのに」


「もう、いけずなこと言わない。今日は鯛のお刺身もらったんだよ」


「まだ、残ってる?」


 ほらね、やっぱりてっちゃんは小腹をすかして帰ってくる。


「筍ご飯もあるよ」


 そう言うと、てっちゃんは見るからにしゅんと、オーバーにうなだれる。これは酔ってるな。


「今日、家でご飯食べたかった」


 小学生がお母さんに、学校行きたくなかったという言い方そっくりだ。この人三十五なのだけど、かわいいな。


「飲み会つまんなかったの?」


「つまらんというか、なんというか。楽しくはなかった」


 大人の世界のことはわからないけれど、てっちゃんみたいな呑気な人でも付き合いでお酒を飲まないといけない時もあるのだろう。


「まあ、そういう日もあるよね」


 わたしはわからないくせに、わかったような口をきく。てっちゃんは、ふっと秘密を漏らすように息をつき夜空を仰いだ。天を見あげる白い顔はさっきの小学生の顔ではなく、大人の男の愁いをおびている。


 黒髪からすっかり元に戻った金色の髪が川風に揺れ、尖った顎と首が天を貫く矢のように真っすぐ伸びた姿は美しい。ふと、美しいものには魔が宿る、という言葉を思い出し視線を外した。


「なあ薫、こないだお弁当持って行った植物園って男の子といっしょやったん?」


「えっ、なんでそんなこと急に言うの?」


 そういえば、今日の飲み会の場所は典子さんのお店だった。


「典子さんが、薫が男の子と歩いてたって。すごく楽しそうであれは、そのうち付き合うとか言うてた」


 典子さんとママって同じ思考回路をしている。やっぱり母子だ。しかしどうしてお年寄りというのは、若者の色恋でこうも盛り上がれるのだろう。


 枯れている心を潤すのは、若人の恋バナなのか。人の恋路で盛り上がるなら、自分で恋をすればいいのに。


「もう、すぐそういうこと言う。男の子と二人だけじゃなかったんだよ。他の女の子も入れて三人で行ったのに」


「ほんま?」


 てっちゃんは、星空からわたしへ視線を移す。ちょっとうれしそうなのは、父親が娘を取られなかった安堵の笑みだろうか。


 わたしはうなずき、てっちゃんと入れ替わりに夜空を見上げる。ちょうど月が霞んで、涙に滲んだような朧月だった。


「えっと、こういう朧月夜の歌があったよね。たしか……朧月夜に似るものぞなき。だっけ?」


 古典の時間にならったような、どこかの本で読んだようなあいまいな歌の一説を口ずさんだ。そうしたら、てっちゃんは見たこともない妖艶な笑みを浮かべて再び朧月を仰ぎ見ると、朗々と月に届く声で歌を詠む。


「深き夜のあわれを知るも入る月のおぼろけならぬちぎりとぞ思う」


 歌の中の『ちぎり』という言葉に、一瞬心臓が跳ねた。古語の契りの意味は男女の関係になること。でも、わたしはそんなことに気づかないフリをする。


 しょせん、酔っ払いの戯言だ。


「綺麗な歌だね。誰が詠んだ歌?」


 聞いたような歌だったからそう訊いたのに、

「ここが、宮中じゃなくてよかったわ。あぶない、あぶない」

 という返しが返ってきた。


 艶っぽい歌なのは予想がつくけれど、てっちゃんの言葉の真意まで理解できない。


「ねえ、どういう意味? 全然わかんない」


 わたしの懇願に、てっちゃんはいつものふにゃっとした男の毒のない笑顔で、


「薫には、まだまだ早かったな。お子さまはわからんでええ」


 わたしのことを子供あつかいする。


「もう、わたし大学生だもん。植物園にいっしょに行った友達に、人妻と勘違いされたんだから。大人に見えるの」


「はっ、人妻? えらい、色気のない人妻やな」


「人妻って、色気が漂うの? なんで」


「なんでて……。そら、旦那がいるからやろ」


「旦那さんに、ご飯つくってあげるから?」


 そういえば、わたしの料理上手なところから、人妻と言われたのだ。


「そうそう、毎日ご飯つくるから、色気っていうおいしい匂いが漂うねん」


「もう! 絶対違うでしょ。教えてよ。ケチ!」


 てっちゃんが、わたしの押している自転車のベルを鳴らす。


「こらっ、ケチとはなんや、ケチとは。そんな子に育てた覚えはあらへん」


 朧月夜にてっちゃんとわたしは、心を曇らせどうでもいい会話を繰り返す。霞の向こうの何もかも見透かすような、冴えた月の光から逃げるように。


 寒くもなく熱くもないあいまいな春の空気を吸い、耳にはとうとうと流れる川音を聞いて、わたしたちは家路を急いだ。

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