第3話 筍ご飯

 炊飯器をパカッと開け、筍ご飯のいい匂いを思いっきり吸い込んだ。昆布から染みだした出汁の匂いと、ホクホクの筍の匂い。


 春でないと食べられない、季節限定のご馳走だ。


「あの男は、今日はいないのか?」


 うちの台所にマイケルが仁王立ちして、顔をしかめている。


「てっちゃん、今日は勅使河原先生に呼び出されて、飲み会だって」


 お猿のママが、マイケルに抱っこされながら答えてあげている。この二人の関係性がいまだにわからない。


「鯛の刺身、けっこう持って来たけど食べきれるか?」


「大丈夫です。てっちゃん、飲み会から帰っても小腹すかしてるから」


 今日の土曜日の早朝のことだ。春の暁の光にも気づかず布団の中にいたら、突然スマホが鳴った。無意識でとると、低い声が聞こえてくる。


「今日、君のところで夕飯が食べたい。刺身を持って行こうと思うが、何が食べたい?」


 ……刺身? 春と言えば、鯛がおいしい季節。わたしは寝ぼけ眼で相手を確認せずに、「鯛」と答えふたたび眠りに落ちたのだった。


 目覚めてから、夢の中の会話が現実であったことを着信履歴からさとったのだった。


 マイケルは、あれから本当にこの近くのマンションを借り住み始めた。そして、宣言通り、我が家にご飯を食べに来るようになったのだ。


 しかし、そこはセレブ。手ぶらではやってこず、必ず高級食材を抱えてやってくる。てっちゃんはいい顔をしていないが、ちゃんと事前に連絡を入れてこちらの都合が悪いと引き下がるという大人のお付き合いだ。


 今日は典子さんのところでのバイトも休みだったので、お隣の桐野さんにいただいた掘りたての長岡産筍を使って、筍ご飯をメインにして若竹煮とお吸い物を用意していた。


 食卓にはマイケルとわたしとお猿のママが座っている。足元では、ミヤがご飯をカリカリとリズミカルに食んでいた。


 てっちゃんがいないのは、初めてのことだった。まだマイケルには慣れていないが、会話はほとんどママがしてくれるので楽と言えば楽だ。


 さっそく、鯛のお刺身から頂く。淡白な味の鯛だけれど、春の鯛は脂がのっている。口に入れると、爽やかな鯛の香りが広がった。


「うまい!」


 手を額に当て、天を仰いで体全体で喜びを表すマイケルがおもしろい。


「あの、柚子胡椒をちょっとだけつけたら、ピリッとして違う味わいになりますよ」


 お土産に貰った柚子胡椒を冷蔵庫から出す。


「おお、ありがとう。へえ、柚子胡椒なんて調味料初めて聞くな」


「九州の調味料です。唐辛子のことを九州では胡椒って言うとか。けっこう辛いから、ちょっとだけにしてください」


 わたしの忠告通り、瓶から少量すくい鯛の刺身の上にのせ口に入れた。


「なんだこれ!! 柚子の風味もするぞ。あっさりした鯛の味にパンチがきく。くう、日本酒も持ってくればよかった!」


 マイケルの野太い声にミヤがみゃーと抗議の声を出し、ママはすかさずダメ出しをする。


「ダメ! ここは居酒屋じゃないからね。食事だけして。薫ちゃんにお酌とかさせたら、てっちゃんに殺されるよ」


「そうだった、薫はまだ酒が飲めないんだったな。日本の法律では二十歳から飲酒できるのか?」


「はい。わたし、まだ十八です」


「というか、薫ちゃん、五月で十九じゃない。わあ、大きくなったね」


 いやいや何を娘の成長に感動してるのだ。あなたには、九歳までしか育ててもらってません。そう思ってふと気づく。


 もう、ママといた時間より長くてっちゃんと暮らしていることに。


「何、来月じゃないか。それはお祝いしないとな」


「……そんな、大げさにしないでください。てっちゃんが、ちゃんとお祝いしてくれるから」


 毎年、てっちゃんがケーキを買ってきて、カレーを作ってくれる。市販のルーを使った普通のカレーだけど、てっちゃんに作ってもらうとなぜかおいしい。


 今年は忙しいけれど、作ってくれるかな、カレー。


「ところで、そのてっちゃんは、最近忙しそうだな。まあ、小説家なんてどこまで仕事かわからんけどな」


「ちょっと、その言い方、意地悪だね」


 ママが、長い腕でマイケルを小突く。


「クリエイティブな仕事に、色恋はつきものだろ」


 ……アメリカ人のくせに、色恋とか古風な言葉よく知っているものだ。わたしは、筍ご飯を頬張る。口の中でシャリシャリと筍を噛む音が響く。


「まあ、あの顔だから、昔からモテてたけどね」


「というか、結婚しないのか? 若く見えるけど、けっこう年くってるだろ」


「えっと、三十五だっけ?」


 わたしは無言でうなずく。


「えっ、俺より年上? 信じられん」


 マイケルがてっちゃんより若かったことに驚愕する。どう見ても四十ぐらいに……。


「もう、てっちゃんのことはいいの。本人がいないところで陰口たたくなんて、日本人みたいなことしない」


「すまん」マイケルはママに怒られ素直に謝った。完全に尻にひかれている。


「それより、筍ご飯おいしい? 薫ちゃんの料理はうちの典子さん直伝だからね」


 ママは娘を褒められたくてうずうずしている。親バカか。マイケルはママに言われ、筍ご飯を口に運んだ。


「うん、うまい。筍のえぐみに春を感じるな。シャキシャキして歯ごたえが残ってるのもいいし、塩加減もちょうどいい」


 ……筍のえぐみに春を感じるって。この人本当にアメリカ人? グルメなセレブに褒められ悪い気はしない。


 押しの強いアメリカ人とお猿のママで囲む食卓も、けっこう楽しいものだった。

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