第二章 藤壺の帰還

第1話 ご当地グルメ

 夕暮れの台所にお出汁のいい匂いが漂っている。出汁は時間を短縮して、いただき物の某有名料亭の出汁パックを使用している。受験生なのだから、時短できるところは時短する。


 今日のメニューは、京都のご当地グルメ衣笠丼きぬがさどんだった。


 門山賞の候補になってから、てっちゃんは何かと忙しい。出版社に出向きサイン本の作成や、インタビューをこなし今日三日ぶりに東京から帰ってくる。


 三日間もこの家にわたしが一人になるのを心配していたが、勉強もあるし典子さんのところにはいかなかった。何かあればすぐにお隣の桐野さんのところに行くようにと、てっちゃんは口を酸っぱく言って旅立っていった。


 新幹線の時刻は聞いている。もうそろそろ帰宅する時刻だ。それに合わせて衣笠丼の調理を始めた。


 そもそも衣笠丼とは? という疑問に答えるなら、油揚げと玉ねぎを玉子でとじ、九条ネギをまぶした丼ぶりのことである。肉の代わりに油揚げを使うので、ヘルシーかつ節約メニューにもなる。


 ちなみに、衣笠とは金閣寺の近くにある衣笠山のこと。なんでも丼ぶりの見た目がこの衣笠山に似ていることからのネーミングらしい。


 出汁パックでとった出汁に薄口と濃口醤油、みりんと砂糖を入れてそこに薄切りの玉ねぎを投入。濃い東京の味付けに辟易して帰ってくるだろうから、出汁のきいた薄い味を心がける。


 煮立ったら短冊に切った油揚げを油抜きせずに加える。この油がコクとなって肉無し丼ぶりでもおいしくしてくれる。


 この油揚げ、とにかく大きい。京都人は豆腐が大好きだけれど油揚げにも並々ならぬ情熱を持っている。なんせ油揚げのことを「おあげさん」と、丁寧語の「お」をつけ「さん」までつけるのだ。ちなみにお豆腐とは言うけれどお豆腐さんとは言わない。


 この差別は、油揚げが稲荷神社の神の使いである狐の好物だからではないかと、勝手に思っている。


 それほどに大事な食材なので、他地域の油揚げよりもしっとり分厚く大豆のうまみが濃縮されていておいしい。


 その単品でもおいしいものが、スポンジのようにつゆを吸収し、噛んだ瞬間じゅわっとつゆと大豆のうまみの化合物を口中に放出してくれるのだから、たまらない。


 玉子を投入する前段階の具材を煮詰めていると、玄関戸のカギを回す音がした。わたしは火を弱めて玄関へ走っていく。


「ただいま~」


 てっちゃんはお出かけ用のさび色の紬のアンサンブル姿で、トランクをかかえて入って来た。


「おかえり、もうすぐご飯できるよ」


 うーん、憎たらしいほどかっこいい。居間の机の下で丸くなっていたミヤもさっそく玄関に出てきて、てっちゃんの足元にすり寄っていた。


 さぞ、インタビューで写真をバシャバシャと撮られたことだろう。いつもは作家なのに顔に注目されるのは嫌と言ってインタビューを断るのに、今回は数社を受けたと言っていた。


「いい匂いするなあ。何作ってんの?」


「衣笠丼に、おつゆははんぺんとしめじだよ」


「あー、聞いてるだけでお腹すくわ。手伝う」


「いいよ、疲れてるのに」


「大丈夫や、新幹線で爆睡してたし」


 てっちゃんはトランクを二階に上げ、着流しに着替えて下りてきた。たすき掛けした姿は、料亭の若旦那そのものだった。


「何したらええ?」


「じゃあ、ネギ切って」


 うちの台所はシンクが低いので、背の高いてっちゃんは腰をかがめてネギを切っている。腰痛は作家の職業病なのに。悪いなと思いつつ、久しぶりにてっちゃんと並んで台所に立てて正直うれしい。


「留守の間、何もなかったか?」


 まな板の上の九条ネギを斜め切りしながら、てっちゃんは訊いてきた。


「変わったっていうか、不思議なことはあったかな」


 てっちゃんの手がとまる。


「えっ、なんや。その思わせぶりな言い方」


「なんかね。朝起きて冷蔵庫開けたら、お猿のチッチが中に入ってたの」


 本当に、お弁当をつくろうと冷蔵庫を開けたらお猿のぬいぐるみがいたのだ。思わず二度見してしまった。


「薫が寝ぼけて、入れたんちゃうの。小学生の頃、よう寝ぼけてたし」


「違うよ。わたしもう、高校生……というか大人です」


 その言い方が子供っぽかったようで、てっちゃんが吹き出す。てっちゃんの中では犯人はわたしに決定したようだった。


「あとね、ミヤがしょっちゅうチッチをくわえて歩いてた。今までそんなことしなかったのに」


 青い瞳が足元のミヤを見ると、大きなあくびをしていた。


「なんやろ。魚の匂いでもうつったんかな」


 そんな単純な話なのかな……。てっちゃんのおじいちゃんが書斎にしていた洋間に、チッチが落ちていたこともある。まるで、チッチが家じゅうを探検しているような。


 いやいや、そんなファンタジー設定は、てっちゃんだけで十分だ。動く人形とかファンタジーよりも、ホラーだ。


 そうこうしていると、衣笠丼とおつゆは完成した。食卓の上に並べ、三日ぶりにふたりでご飯を食べた。


「いただきまーす」


 ふたり同時に手を合わせ、おつゆから頂く。はんぺんとしめじだけでは色目がさみしいので、豆苗の水稲栽培を数本ちらした。


 豆苗は安くて、栄養価も高い。根っこを捨てずに再利用できるという便利野菜である。


 おつゆにはんぺんからの魚のうまみも染み出し、実に京都らしい上品な一品に仕上がっているけれども……。


「本当は、しめじより松茸が欲しいとこだね」


 去年の秋に典子さんのところで食べた、松茸の味が忘れられない。やはり、贅沢なものを口にするのは、節約生活の天敵である。


「薫、松茸は匂いだけや。香り松茸味しめじって言うて、しめじの方がおいしいんや」


 てっちゃんは博識ぶって言うが、ただのやせ我慢だと思う。


 わたしたちは、同時に衣笠丼のどんぶりにお箸をつける。ふわふわの玉子の上にてっちゃんが切ったネギが乗っている。この青いネギが、衣笠山の木々の青さに見えなくもない。


「あー玉子がふわふわでおいしいわ。味も薄いし。ちょうどええ」


「玉子には天かす入れてるから、ふわふわなんだよ。ネットで見て試してみた」


「なるほど、このふわふわは天かすか」


 てっちゃんは玉子のからんだおあげさんを頬張り、京都のご当地グルメを堪能していた。

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