第5話 鰤しゃぶ

 夕方から降っていた雨は、しとしとと降り続いている。雨が降るたび気温が下がり、鍋が恋しい季節となってきた。


 卓上コンロの上に乗せられた土鍋から、湯気とともに食欲をそそるほっこりおいしい匂いが漂ってくる。


「なあ、もうええか? もうええ? がまんできひん!」


 三十路の純文学作家が、箸の先にぶりの切り身をつまみ臨戦態勢でわたしの合図を待っている。


「もうちょっと待って、まださっき入れた水菜に火が通ってない」


 鍋をする時の鉄則。誰が鍋奉行かはっきりさせておくべし。そうしないと鍋の中の秩序が乱れ、大渋滞をおこす危険性がある。


 本日の鍋奉行――わたし――は、眼光鋭くぐつぐつ煮える鍋の中を注視する。


「よし、いいよ。鰤をしゃぶしゃぶして」


 待ってましたとばかりに、昆布でとった出汁の中に薄切りの鰤を投入して三回ほどしゃぶしゃぶする。てっちゃんは、はふはふしながら、鰤しゃぶを口に入れた。


「あかん、うますぎる!」


 てっちゃんのおいしそうな顔を見て、わたしも鰤をいただく。脂ののった鰤は口の中でとろける。二枚目の鰤は水菜といっしょに食べるとしゃきしゃきの触感が加わり、鰤の脂っぽさをマイルドにしてくれた。


 もちろん、鰤を引き立てるポン酢と薬味もいい仕事をしてくれている。我が家の定番鍋の薬味は、おろし大根。今日はそこにしょうがをプラスしている。


「いいなあ、おいしそうだなあ。食べたいなあ」


「ママは、無理でしょ。口あかないんだから」


 お猿のぬいぐるみが、わたしの隣の椅子で立ちあがり鍋の中を覗き込んでいる。


「美夜ちゃん、あんまり近づくとお汁が跳ねるで」


 わたしのお箸から白菜がぼたりと落ち、おつゆが跳ねた。


「やだ、熱い!」


「あっ、ごめん」


 このぬいぐるみ、どういう仕組みなのかわからないが、感覚だけはあるみたい。匂いはわかるし、こちょこちょしたら大笑いする。


「てっちゃん、いっぱい食べてね。明日の門山賞の発表の前祝いに典子さんが、鰤しゃぶセット持って来てくれたんだから」


 今日は土曜日で模試が終わり帰宅すると、典子さんが大きな発泡スチロールの箱を抱えてやってきたのだ。典子さんがこの家にいる間、ママは隅に隠れてぬいぐるみの真似をしていた。


「いや、前祝いって……。まだ受賞するかわからんのやし」


 この間は絶対受賞すると強気なことを言っていたのに、百八十度違うことを言い出した。受賞発表前のナーバスな作家に、元モデルの陽キャが発破をかける。


「ダメだよ。そんな気弱なこと言ったら。絶対、受賞してるって気持ちでいかないと。あーあ。あたしもついて行きたいな。久しぶりの東京」


「あかん。美夜ちゃんは薫と留守番してくれんと。薫がさみしがる」


「別に、ひとりでもいいけど。うるさいのがいない方が、勉強に集中できるし」


 わたしは熱々のお豆腐にスダチをかける。鰤の脂をまとった豆腐にさっぱりとしたスダチが合うのだ。


「ほら、薫ちゃんもいいって言ってるじゃん。てっちゃんとふたりで、行こうよー」


 豆腐を口にふくむと、すだちをかけすぎ眉間にしわがよる。


「ママがいない間に、わたし典子さんにママのこと言おうかな。だって、典子さんママが死んじゃったの知らないなんて、かわいそうだよ」


 これは意地悪ではなく、報告義務を怠っている罪悪感が言わせたのだ。死んでからも、典子さんが怖いらしく、ママはしおしおと大人しくなった。


「ところで、今日の模試はどうやったんや? 年明けには、共通テストやろ」


 てっちゃんが、鰤に紅葉おろしをかけている。


「まあまあかな。そうだ、古典の出題は源氏物語だったし。そこは完璧。やっぱり漫画全巻、図書館で読んでてよかった」


「へー、どこが出たん?」


「真木柱のとこだったんだけど、ひげ黒大将が最低すぎて、模試の間ずっとむかむかしてた」


「えーなになに、どういうこと?」


 ママが食いついてきたので、わたしは真木柱の帖の説明を簡単にしてあげた。

 薄幸で美しい娘の玉鬘たまかずらは源氏のライバル頭中将(内大臣)の娘だけど、縁あって源氏の家でお世話になっていた。


 そんな玉鬘の噂を聞きつけ、当代の公達たちが求婚する。その中でひげ黒大将が強引に思いを叶え妻にしてしまうが、玉鬘はひげ黒大将に当然愛情を感じない。


 ひげ黒大将には、正妻と子供たちがいる。おまけに正妻は病気で、精神状態が不安定。ひげ黒大将が新しい妻をめとったので、実家に帰ってしまった。


「ね、最低でしょ。病気の妻がいるのに若い娘に夢中になるなんて」


「あー、なるほど……。まあそこは男の弱さというか。かわいげというか」


 お猿のママが、わかったようなことを言い出した。


「何その、男のかわいげって」


「病気の妻ってけっこうな負担なんだよー。仕事に疲れて帰って来た家でも、気が休まらない。ついつい、癒しを外に求めちゃう気持ちは、わからないでもない」


「はっ? 一番つらいのは、病気の妻でしょ。何で自分だけ、癒しを求めるの。男の勝手だよ」


「家でも外でも、献身的に人を支える男ってのもいるけど、そんな聖人に人間味を感じないじゃない。ふらふらする男の方が、人間臭くてかわいげあると思うけどなー」


「……意味不明」


 そんな男のかわいげに、一ミリも共感なんてできるか! 


 ひげ黒大将の正妻は実家に娘をつれて帰るのだけれど、その娘の真木柱まきばしらにわたしは圧倒的に共感した。住み慣れた屋敷を離れる時、いつも寄りかかっていた柱に私を忘れないでねっていう和歌を詠むのだ。


 結局、今も昔も大人の色恋に振り回されるのはいつだって子供だ。


「じゃあ、薫ちゃんはどういう男の子なら納得するわけ?」


 ママが身も蓋もないことをわたしにふる。


「やっぱり、一途な人がいいな。幼馴染との恋を叶えるような人。そうだ、源氏物語の夕霧は幼馴染の姫と結ばれるんだよ」


 ここで自分も属する男性をいじられ、いたたまれなかったのかじっと黙っていたてっちゃんがようやく割って入る。


「薫、夕霧は年とってから親友の未亡人に入れあげるんやで」


 あっ、そうだった……。

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