第8話 お祝いの鰻
てっちゃんの門山賞受賞を、ご近所さんやわたしの保護者が八宮撤舟だと知る人たちは、口々におめでとうと祝福してくれた。特に担任の先生は大喜びで、こっそりサイン本を頼んできた。
この間の面談の時からほしかったらしいが、理性でがまんしたそうだ。生徒の保護者にそういうお願いは不謹慎。このコンプラがうるさいご時世、教師はどこで叩かれるか分かったものではない。
しかしそれももう限界だと、新たに買いなおした受賞作品の『骨と青春』を渡された。
保存版にするからということらしい。売り上げに貢献していただけるファンの方は、ありがたい存在である。
そして受賞して二日後、ようやく今日の夕方てっちゃんが帰ってくる。晩御飯のメニューはもう決まっているので、学校からの帰宅途中にある商店街の魚屋さんの前で自転車をとめた。
この香ばしい食欲をそそる匂いだけで、ご飯が何杯でも食べられそうだ。わたしは店の中に入って行き、威勢のいいおじさんに向かって胸をはる。
「鰻のかば焼き、二本ください!」
目玉が飛び出るほど高い日本産鰻を、ひとり一本と言う贅沢さ。いや、違う。てっちゃんの分で一本と半分だ。トレーに乗せられた焼き立てのかば焼きを自転車の籠に入れ家路を急ぐ。
晩秋の冷たい風にふかれ自転車をこいでいても、心は温かい。それは、高い鰻が食べられる幸福ではなく、てっちゃんと食べられるという喜びだ。
留守の間のひとり飯は、なんとも味気なかった。ミヤを膝に乗せ、お猿のママが話し相手になってくれたので、さみしくはなかったけれど。
いかんせん、ぬいぐるみと猫はいっしょに食事ができない。同じ食卓で顔を見ながら食べる食事は、どんな高級なひとり飯でもかなわないのだ。
「ただいま」
玄関の戸をあけ声をかけると、とことこと居間からママが出てきた。
「おかえり、洗濯物はたたんでおいたよ」
体長三十センチのママでも取り込めるよう、洗濯物は縁側に物干しスタンドをおいて干している。あとは、廊下のモップかけもしてくれる。日中、猫のミヤと遊ぶ以外することがないとぼやくので、家事を手伝ってもらっていた。
「ありがとう。今日、てっちゃん帰ってくるね」
朝も同じことを言ったのだけれど、うれしいことは何度でも言いたい。
「だね。鰻買ってきた?」
「もちろん!」
そう言うと、二階にあがり制服をぬぎ、いつもの着古したパーカーに手を伸ばした。でもしばし考えてから、去年典子さんに買ってもらったピンクのちょっとかわいいカットソーに変更する。
着替えて台所に入ると、ママがダイニングテーブルにおいた鰻の匂いを嗅いでいた。そういえば、ママは鰻が好物だった。
東京にいたころ、よく鰻をお店に食べに行っていたことを思い出す。もうママは二度と鰻が食べられない……。
ダメだ、今日はてっちゃんが帰ってきてお祝いをするめでたい日。暗いことは考えない!
「鰻のほかに、何つくるの?」
ママの明るい声にほっと息を吐き出す。
「えっとね。お豆腐とわかめのおつゆと水菜のサラダ。水菜がおいしくなる季節だしね」
おつゆはいつもの出汁パックで出汁をとり、豆腐は半分だけ使う。残りは水菜のサラダにするため、豆腐の水けを切っておく。
豆腐は京豆腐で、木綿と絹ごし豆腐の間のような柔らかさだ。水菜は三センチほどの長さに切る。まずボールにごま油と酢と醤油を入れて、そこに鷹の爪を一本浸しておく。
この鷹の爪は、庭で育てた唐辛子だ。苗を一本植えておくだけで、たくさん収穫できる。
切った水菜と豆腐をボールに盛り付けて、食べる直前に、作ったタレとすりごまをかける。そうすると、シャキシャキの水菜が食べられる。
鰻は、てっちゃんが帰ったら、温めなおす。これで下準備は終了だ。濡れた手をふきつつ時計を見ると、もうそろそろ帰ってくる時刻。
鍵を開けておこうと玄関に向かったら、すりガラス越しに人影が映っていた。もう、帰ってきたんだと思い、鍵をあけて引き戸を勢いよく開けた。しかし、そこには見知らぬ人が立っていた。
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