第7話 典子さん

 京都市内の四条通りから先斗町の細い通りを上がってしばらく行くと、番号がふられた路地ろおじを西に入る。人一人がやっと通れるような薄暗い路地。


 異世界の入り口のようなその路地の突き当りに、典子さんの小料理屋はあった。


 しつこい残暑もようやくおさまり過ごしやすくなった京都は、秋の行楽シーズン真っただ中。四条通りの観光客の喧騒がこの迷宮のような路地の奥には届かず、ひっそりとした京都の日常が息づいている。


 そんなお店でわたしは月に三回、土曜日の昼から夕方までアルバイトをしていた。


 うちの高校は自称進学校なので、よほどの家庭の事情がない限りアルバイト禁止である。売れない作家の保護者はその特例にあたらず、本来ならできないのだけれど、そこはいくらでも抜け道はあった。


 祖母のお店の手伝い。もちろんバイト代はもらっていません。ということでお小遣いという名のバイト代をもらっていた。


 カウンター席のみのこじんまりしたお店は、ほとんどが常連さんだ。だから多少無口なバイトは女将の孫だと認識されているので、クレームを言うお客さんもいない。


 そのお手伝いと言う名のバイトも、受験のために今日で終了だ。


 昼の営業が終わり、夜の仕込みの時間。炒った銀杏の殻と薄皮をむいていた。カウンターの上に新聞紙を広げ、ペンチのような道具を使って硬い殻を割る。


「今日の夜は貸し切りなの?」


 わたしは、新聞の上の大量の銀杏を見つめる。隣に座る典子さんは着物の上から割烹着をつけて、薄皮をむく手を休めずに答えてくれた。


「そうや、勅使河原てしがわら先生がお仲間と集まらはるんや。銀杏ご飯食べたい言わはったさかい」


 文壇の重鎮、勅使河原先生(京都市在住)はここの常連さんで、てっちゃんも可愛がってもらっているありがたい人である。てっちゃんが勅使河原先生と飲みに行くと、かならずわたしにと言って甘いデザートをお土産に持たせてくれる。


「今日は重陽ちょうようの節句やろ。長生きを願て菊酒を飲む会やて」


 重陽の節句は旧暦の九月九日、今の暦で十月半ばの菊の花が盛りの時期に無病息災、子孫繁栄や不老長寿を願う行事である。


 桃の節句や端午の節句に比べかなりマイナーな節句だけれど、風流をこよなく愛する京都人はこの節句を忘れない。


 菊はその姿かたち香りのよさから不老長寿のパワーがあると信じられ、平安貴族にも愛されてきた高貴な花だ。


 菊酒という菊の花びらを浮かせたお酒を飲むと、邪気をはらい長生きできるとか。着せ綿といって、重陽の節句前夜に菊の花に綿をかぶせ、翌朝夜露にぬれた綿で肌をぬぐうと美容によく、これまた長生きできるなんて風習もある。


 つまりざっくり言うとますます元気で長生きしますようにと、菊を愛でる楽しい行事である。そうは言っても、長生きなど願わずとも人生の残り時間がたっぷりあると思っているJKにとってどうでもいい節句ともいえる。


「ふーん」


 典子さんは、気のない返事をする孫を気にしない。


「最近、学校はどうえ? 先週文化祭やったんやろ」


 離れて暮らす祖母として、昼下がりのこの時間は孫の現状を把握する貴重なチャンスだった。


 このわたしの祖母は見た目だけなら若く見えるが、それは本人の努力と美容にお金をかけられる経済力の賜物である。元芸妓さんなので、隙のない京女の風情を漂わせているが、本人の出身は東である。


 そもそも芸妓さんの前段階、京ことばを流ちょうに操る舞妓さんは、他地域出身の方がほとんどだ。


「特に何もなく、終わったよ」


 本当は何事もあった。しかし高校生のほんのささいな事件なんて、夜の先斗町で濃ゆい京都の人間関係を見続けてきた典子さんにはつまらない話に決まっている。


 文化祭で生徒会役員が大昔のゆるキャラ未来くんの着ぐるみを着るのが、わが校の伝統だったのだが、その未来くんが一時期盗まれたのだ。


 十月だというのに暑い日で、未来くんの中の男子がたまらず脱ぎ捨てそのまま放置している間だった。


 不思議なことに着ぐるみを盗んだ犯人は、未来くんの中に入って生徒会役員になりすまし来場者に愛想を振りまいていたから驚きだ。


 何を好き好んで、クソ暑い着ぐるみを着たかったのだろうか。おまけに、わたしはその犯人に中身が盗人だと知らずにハグされたのだから、気持ちが悪い。


 無事英語劇が終わりわたしは照明係の仕事をはたして、体育館から出るとそこにいた未来くんに労うように頭をなでられハグされたのだ。


 今年の中の人はサービス精神旺盛な人だなと思い、なすがままになっていたらいつまでも放してもらえない。未来くんの薄汚れた白い水干すいかんの胸元の取れかけた朱色のぼんぼんのあたりをぐいっとおしてようやく解放された。


 そそくさとその場から離れようとするわたしを、未来くんは空虚な黒目の不気味な笑顔でじっと見た。そしてきゅっと曲げた短い腕で、ぶんぶんと音が聞こえそうなほど、手を振っていたのだ。


 あとで中身の正体を聞き、あの執拗なハグはいたずらだったとわかり、ぞっとしたのだった。けれど、誰にもこのことを言っていない。先生にでも言おうものなら、絶対保護者に連絡されて、てっちゃんが大騒ぎするのは目に見えていた。


 ただいま久しぶりの連載を抱え、忙しくしているてっちゃんを煩わせたくなかったのだ。

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