第8話 かわいいママ

 典子さんがせっかくふってくれた話題も秒で終わったが、さすがサービス業のプロフェショナル、次なる話題がすぐさま繰り出された。


「薫ちゃん、大学はどこ受けるん?」


 というか、この話題が今日一番典子さんの訊きたかったことだろう。本命を一番に聞かず当たり障りのない話題をまずかますとは。さすが京都人の社交術を心得ている人だ。


「京都公立大学、受けるつもり」


 わたしもここは、誠意をもって返答する。


「北山にある大学やな。ほな、うっとこの家から近いやないの」


 典子さんの住居は先斗町ではなく、北山のマンションだった。志望大学はたしかに、そのマンションから歩いて数分のところにある。


 アイラインを濃くひいた目が、ちらりとわたしを捕らえる。


「あんなあ、大学はうちから通たら? その方が近いし便利やろ」


 やはり血のつながった祖母にとって、孫が血のつながらない叔父に世話になっているこの状況はよくないと思っているのだろう。


「それにさすがに、徹氏てつしくんに大学の学費払わすわけにはいかんわ。学費払うし、うちから通い」


 そんなこと言われても、わたしの家はあの家しかない。九年前の花火の日に自分でそう決めたのだ。


 わたしを捨てたママはとてもかわいく、いつまでも少女のような人だった。十九で出産し、しばらくしてから東京に出てモデルの仕事をしながらわたしを育てていた。


 父親がどんな人か訊いたこともない。というか籍にも入っていないのだから、自ずとどういう関係だったかは知れるというもの。


 典子さんは知っていそうだけれど、わたしに積極的に教えたいと思えるような人ではないのだろう。


 まあどういう経緯でわたしが産まれたのか知りたくないと言えば、嘘になる。けれどわざわざ自分から傷つくとわかっているのに、突撃する勇気なんてあいにく持ち合わせていない。


 わたしの父親はろくでもない人だったようだけれど、ママの東京の彼氏たちはいい人ばかりだった。


 モデルという華やかな職業も相まって、ママの男性関係も派手だったけれど、三面記事にありがちなことは一切なかった。


 それはママの優先順位の一番がつねに娘のわたしであり、彼氏たちもそれを納得して付き合っていたからだ。


 東京でのわたしは、保育園やシッターさんに育てられたようなものだったが、かわいいママが大好きで自慢だった。それなのに……。


 小学三年の夏休み、突然ママが京都に行こうと言い出した。


 初めて会うおばあちゃんに、わたしは友達のママみたいな距離感しかつかめない。ちっともなつこうとしない――今考えると、あたりまえだ――わたしに、典子さんは浴衣を買ってくれた。


 浴衣なんか欲しくなかったけれど、うれしそうに典子さんが浴衣を選んでいたので、わたしもなんとかうれしいフリをしていた。


 そうして夕方になると手毬と金魚の柄の浴衣を着せられ、てっちゃんの住む都のはずれのあの家に連れて行かれたのだ。


 初めて会う叔父さんは、ママとちっとも似ていなかった。


 その日はちょうど花火大会の日で、叔父さんの家の二階からよく見えると言われた。打ち上げ花火なんて見たことがなかったので、とても楽しみでワクワクした気持ちを今でも瞬間冷凍フリーザーバックに詰めこんだみたいに覚えている。


 花火が打ち上がる少し前、電気を消した二階の部屋。その暗がりの中、すぐ隣には金髪碧眼の王子さま。振り返ると、ママが大きな目を細めて少しだけ寂しそうに笑っていた。


 ママ、どこか痛いの? って訊こうとしたら、『トイレに行くからここで待ってて』って肘をわきにぴったりくっつけて、手を振りながら狭い階段をリズミカルな音をたて下りて行った。


 その言葉を信じてわたしはじっと待っていたら、とうとう打ち上げが始まってしまった。暗い室内に赤や青の光が差し込み、背中に地面を震わすほどの轟音が戸口を見続けるわたしの背中にのしかかる。


 赤ちゃんのころからいっしょにいるお猿のぬいぐるみのチッチをぎゅっと抱きしめても、ドキドキする心はおさまらない。


 途中であまりにも遅いからてっちゃんが階下に様子を見に行ったけれど、戻ってきても何も言わない。


 絶対ママが帰ってくるまで見るもんか、と頑ななわたしの震える背中をてっちゃんはずっとさすり続けてくれた。


 ママは魔法が解ける十二時の鐘の音を聞きながら、慌てて逃げたシンデレラみたいに、アイスブルーのパンプスを片方だけ残して消えてしまった。


 ママがいなくなってから、典子さんはすぐ行方を探したが、東京のわたしたちが住んでいたマンションはすでに引き払われていた。


 方々を探して一週間後、あきらめた典子さんがてっちゃんの家でお世話になっていたわたしを、引き取りにきた。


 けれどわたしはてっちゃんの手を握って放さず、ここにいると言ったのだ。今思えば、思い入れも何もない赤の他人と変わらない典子さんと、てっちゃんの違いがわたしにはわからなかった。


 ふたりのうちどちらかの手を取るとしたら、一週間お世話になったきれいな顔をした王子さまと暮らす方が楽しそうに思えたのだ。


 てっちゃんはいきなり他人と変わらない子供になつかれても嫌な顔ひとつせず、『いいよ、いっしょに暮らそう』って言ってくれた。

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