第6話 嫉妬
マンションという建物は、とても機能的にできていて快適な住空間だった。庭もないので梅雨明けの勢いよくのびる雑草の心配もしなくていいし、クーラーも抜群にきいて涼しい。
古い日本家屋は、建具の隙間がいかんともしがたい。でも、今はそんな不便な我が家が恋しくてたまらず、ちっとも勉強に実が入らない。
「薫ちゃん、さっきからレポート全然進んでないね」
わたしはママを連れて、典子さんのマンションに来ていた。もちろん自主的ではなく、てっちゃんに言われて渋々と。
ママはビビり倒していたが、典子さんはマンションにいる時間よりお店にいる時間の方が長いので、心底安心していた。
今夜も典子さんは、着物をビシッと着こなしてお店に出かけて行った。
今奮闘しているレポートは、古典文学と京都がテーマの講義の課題で、京都の名所と結びつく古典の舞台を一か所選んで、フィールドワークで実際に訪れてまとめるというもの。
先生が何か所かピックアップした名所から、わたしは嵐山にある
嵐山の北に広がる有名な観光スポット、嵯峨野の竹林を奥へ進むとひっそりとたたずむ野宮神社が現れる。
日本で唯一というクヌギをつかった黒木の鳥居と、うっそうと茂る緑に囲まれた風情は、今が令和であることを忘れそうなほどいにしえの趣がある。
この場所と縁のある古典文学は、源氏物語。光源氏と恋人の一人である
この六条御息所は年上の恋人で、教養も身分も高い貴婦人の中の貴婦人なのだが、嫉妬深い女性でもあった。
別れの舞台になったところなのに、縁結びで有名な神社で、境内にはかわいい絵馬や撫でると一年以内に願いが叶うという亀石――特に恋愛成就にきく――などがあり、若い女性の参拝客が多かった。
里花ちゃんとわたしも、当然亀石に祈願してきたのだけれど、わたしのお願いは特殊だから叶うかどうか。
血はつながっていないとはいえ、十七も年上の叔父とこれからもずっといっしょにいたい。いつづけるために、二人の関係の落としどころがわからない。いったいどうすればいいのかと、亀石に問うてきたのだが答えなんか聞こえるはずもなく。
「もうすぐ仕上げないと、締め切りきちゃうじゃん」
このレポートの締め切りは、来週試験が始まる前日。さっさと仕上げて、試験勉強もしないといけない。
「だって、神社に行った感想とかは書けるんだけど、源氏物語の登場人物の気持ちがさっぱりわからない」
六条御息所の娘――娘がいることにも驚きなんだけど――は伊勢へ斎王として赴く前にこの神社で潔斎をしていた。御息所も、娘といっしょに伊勢へいくためこの神社に籠っていると、光源氏が最後の別れを言いにくる。
そもそも娘もいるようなところにのこのこ行くな、と思うのは現代人の感覚なのだろう。現代でも、ひっそりと寂しい場所なのだから平安の世ならそれはもうあの世とこの世の境目ぐらい幽玄な場所だったと思う。
そういう場所を別れの舞台に選んだ、紫式部のセンスは抜群で当時の人はこの別れの場面できっと涙を流したということは想像できる。
「有名な場面なんだけどさ、御息所って生霊になって光源氏の正妻を呪っちゃうような人なんだよ」
わたしは机につっぷし、頭を横へ向け机の上のママに愚痴を垂れ流す。
「へえ、アグレッシブな人だね。その御息所さん。耐えて忍ぶ女の人より、いいんじゃない?」
「えっ、そういう感想なんだ」
生前は恋多き女だったママは、そう感じるのかと新鮮な気持ちになった。
「嫉妬って見苦しいって思うけど、それは多く愛した人がもつ感情なんだよ」
お猿の口からもれる、嫉妬についての考察はわたしの胸に重たく響く。
「あー、それはなんとなくわかる。恋愛なんて多く好きになった人の方が負けだよね。心配したり、嫉妬したり振り回されたり」
わたしは典子さんの家に行く条件として、一日三回はかならずLINEすることをてっちゃんに約束させた。もちろん、わたしもLINEすると約束したのに。
「てっちゃんのLINEすっごく素っ気ない。一言しか書かないんだよ。ご飯食べたとか、起きたとか、これから寝るとか。小説家のくせに。そのくせ、わたしに歯をちゃんと磨いたかとか、典子さんに迷惑かけるなとか、子供あつかいして!」
「ふふっ。薫ちゃん、てっちゃんのこと本当に好きなんだね。かわいい」
ママは子供をあやすように、不貞腐れている娘の頭を撫でた。ママにはとっくにわたしがてっちゃんのことを、好きなのだとばれていた。
指輪を見つけられなかったあの日、ご飯も作らずに部屋にこもっているわたしはママから、
「てっちゃんのこと好きなら、言うこと聞いてあげるのも愛だよ」
と言われたのだ。
「なんで、わたしの気持ちわかるの?」
ぐしゃぐしゃに涙でぬれた顔をぬぐって、ママにたずねた。
「そりゃあわかるよ。二人見てたら、もうじれったくて、じれったくて。リアルでドラマ見てるみたいだった」
ドラマなら、ハッピーエンドにしてほしい。二人を遠ざけるアクシデントは、二人の絆を強くするもの。そう思ったら、この状況も乗り切れるのに。でも、人生が必ずしもハッピーエンドとは、限らない。
わたしは突っ伏していた頭を起こし、レポート用紙を見下ろす。
「六条御息所は、耐えて忍ぶ女じゃなかった。っていうママの意見、いただくね。こういう現代にも通じる女性像ならなんかレポート書けそう」
わたしは投げ出していたシャーペンを取る。
「もうひとつママの意見として、てっちゃんのLINEが素気ないのは、長々といろいろ書いたら、薫ちゃんに会いたくなるからだと思うよ。嘘をつく男は、饒舌になるもんだから」
わたしはちらりと天井を見上げ、金の髪をした高い鼻梁に口角のあがった薄い唇の面影を思い浮かべる。
「うん、わかった。てっちゃんのLINEが長くなったら気をつける」
生身の母親ならば、こんな恋バナなんて恥ずかしくてできなかったと思う。愛くるしいお猿の顔をした今のままなら、子供の頃からずっと訊きたいことも訊けそうだった。
「ママって、いったい誰が一番好きだったの?」
東京にいた時、ママにはつねに彼氏がいた。男の人に夢中になっているというよりも、彼氏たちの方がママに夢中になっていた。
子供の時は、わたしのパパが一番好きなのだろうと単純に思っていたけれど。
「……内緒。大人の女には、秘密のひとつやふたつあるもんなの」
「お猿の顔で言われても。全然説得力ないよ」
「あははっ、それもそっか!」
カラッとしたママの笑い声に、わたしも吹き出した。
こんな風にいつもでもお猿のまま傍にいてほしいと思う反面、ママが亡くなってそろそろ一年になろうとしていた。
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