第5話 夕暮れ

 その日の夕暮れは怖いほど美しい景色だった。


 最寄りの駅でおり橋のたもとに立つと、西の空を眺めた。橋と並行して架けられた鉄道の鉄橋が朱鷺色の残照を受け、黒く浮かび上がる。


 目線を上げると頭上いっぱいに茜色と濃い紫色の二色が混ざり合い、美しいグラデーションが空一面に広がっていた。


 梅雨時の湿度の高い大気に波長の長い赤い光だけが散乱され、色が際立つ夕焼けになる仕組み。高い湿度は不快でしかないが、川風に吹かれて美しい風景が見られるならちょっとは京都の夏も悪くないと思える。


 まだ痛む左手を無意識に撫でていると、女性の声で名前を呼ばれた。


「柏木薫さんですか?」


 声のする方を見遣ると、長い髪を無造作にまとめガリガリに痩せた鼻の高い女性だった。見覚えがないので不審な顔をすると、その人はへつらうような笑みを浮かべた。


「わたし勅使河原の姪の末莉まつりです。典子さんのお店で、ちらっとお見かけしたことあります」


 勅使河原先生の姪御さんといえば、てっちゃんとお見合いをしたがっていた人だ。お店で顔を合せていたとは全然知らなかった。


 勅使河原先生にはいつもお世話になっているので、この姪御さんにも丁重に頭を下げて挨拶をした。


「ちょうどよかった。叔父からの預かり物をお届けするところだったんです」


 そう言って、差し出された袋の中にはブリザーブドフラワーのフラワーアレンジメントが入っていた。


「最近、ちっとも典子さんのお店にいらっしゃらないから、心配してました。仕事のしすぎじゃないかって」


 確かに、ここ最近てっちゃんは勅使河原先生のお誘いを断っていた。たんに忙しいというのもあるが、あの張り紙のことがあったからだ。


「ありがとうございます。こんなかわいいお花」


「あっ、お花にしたのは薫さんがお好きなものにしてくれって、叔父に言われましたので」


 勅使河原先生は、わたしが付き合っているとか勝手なこと言うちょっと迷惑なおじさまだけど、いつもわたしにお土産をくれるような気づかいもできる素敵な先生なのだ。


「夏に生花だとすぐにダメになるから、ブリザーブドフラワーうれしいです。うちすぐそこなんで寄って行かれませんか?」


 せっかく届け物をしていただいたのに、はいさようならと帰すのも失礼だと思ったのだが。


「いえ、これから用事がありますから、失礼します」


 末莉さんは、袋を押し付けるようにわたしに渡すと慌てた様子で駅の方に歩いて行った。忙しそうな末莉さんに頼まずに、秘書の六条さんに頼めばいいのに。


 咄嗟に勅使河原先生を非難しそうになって、いやいやそれぞれ事情があると考えないようにした。


 お花の入った袋を下げて、トボトボと徒歩で帰宅すると、お猿のママが出迎えてくれた。


「おかえり、何持ってるの?」


「そこでね、勅使河原先生の姪御さんに会って、てっちゃんにって。典子さんのお店に来ないから、先生心配してるみたい」


「えっ、男にお花?」


 ママが袋の中を覗いて、驚いている。


「てっちゃんにっていうか、わたしにだよ。あの先生いろいろ女性全般にやさしいから」


「納得。その先生、根っからのすいな京おとこだね」


 わたしは袋からアレンジメントを出し、げた箱の上においた。くすんだ色合いでまとめられたバラとグリーンのアレンジはかわいい籠に入れられていた。あまり身なりを整えていないように見えた末莉さんだけど、小物のセンスはいいようだ。


 玄関にはママが生前この家を飛び出した時に脱げた、アイスブルーのパンプスがいまだに片方だけおかれていた。ママはこのシンデレラみたいなパンプスを見ても、その時のことが思い出せないそうだ。


 そのパンプスにほこりがついているのに、気が付く。手でほこりを払っていると、てっちゃんが二階から降りてきた。


「これから、ご飯つくるね」


 と声をかけて台所に向かおうとすると、てっちゃんに


「どないしたんや、この手は?」


 と左手をつかまれた。


「……えっと、ちょっと大学で、釘が出てるとこがあって引っかけただけ」


 一生懸命視線が泳がないよう、青い瞳を見据えて答えたのだけど。


「ほんまか?」


 てっちゃんは、疑っているようだった。その疑いの視線から逃れるようにエプロンをつけ、夕飯の支度をしようとしたら、てっちゃんに肩をつかまれた。


「薫に話がある。座って」


 その言い方に有無を言わせない圧を感じる。てっちゃんにそんな口調で言われたのは、初めてだった。


 それはママもそう感じたのか、ダイニングテーブルに座った私の横から手を握って来た。ママのふわふわの手の感触に、ちょっとだけ落ち着く。


 何を言われるのかと身構えていると、いつものてっちゃんの声音より低い口調で話しかけられた。


「防犯カメラ頼んだんやけど、今込み合ってるとかで取り付けるのは、二か月後になるそうや。その間、薫は典子さんのところに行き。ここにはおいとけん」


 うつむいていた視線を即座にあげて、わたしは抗議する。


「えっ、やだそんなの。あの張り紙はいたずらでしょ。それに、この怪我本当にたいしたことないんだよ」


「編集部に、変なメールが届いたんや。僕の新作について、こんなのは嘘だとか、読者の期待を裏切るとか」


「そ、それは熱心なファンなだけじゃあ」


 わたしはちょっとでも楽観的な雰囲気になるよう、明るい声で言ったけれど無駄だった。


「メールの送り主が、うちに張り紙した人なんは明白や。そういう思いつめたファンに、家を突き止められてる。これから何するかわからへん」


 黙って聞いていたママが、すっくと立ちあがった。


「ちょっと待って、ファンとは限んないんじゃない? 朧さんかもしれないよ。あの人、ふられて逆恨みしてるのかもしれないし」


 てっちゃんのきれいな顔が、みるみる曇っていく。


「それは、わからん。もしそうなら、僕が全部悪いんやけど。とにかく、薫だけは巻き込みたくない。ほんまは防犯カメラつけたぐらいで、安全は保障されへんけど」


「いや、絶対いや!! わたしがいない間にてっちゃんに何か遭ったら、どうするの?」


 わたしが叫んでいるのに、てっちゃんは薄くほほ笑んでいるだけ。


「メールの文面やあの張り紙の字みたら、たぶん女の人がやってると思う。僕は男なんやから、大丈夫や。乱暴なことされても、負けへん」


「てっちゃんなんて、運動も碌にしてないのにストーカーに負けるに決まってる。それに、わたしがいないと困るよ。ご飯だって洗濯だって、自分でしないといけないよ」


「薫がしてくれる前は、自分でしてたんやから。心配せんでもええ」


 わたしが何を言っても、てっちゃんは揺るがない。そういう相手を論破できるわけもなく、感情を爆発させるしかなかった。


「わたしは、離れたくない。てっちゃんも、そうでしょ。本当は、わたしと離れたくないよね」


 言っていることが、まるで子供だ。


「ずっと、離れてるわけやない。防犯カメラつくまでや。その間、何もなければいいんやから」


「やだ、二か月でもいや!! わたし、てっちゃんと離れたら、さみしくて、何するかわかんないよ。優しくしてくれる男の子と、付き合うかもしれないんだから」


 お願いを聞いてもらえない子供は、脅しにかかる。てっちゃんが、わたしのこと好きなら絶対、嫌なはず。だから、わたしから離れないで。


「彼氏つくるのは、薫の自由や。僕は叔父なんやから、とやかく言えるわけない」


「嘘つき! わたしに、指輪贈ろうとしたくせに」


 今更、叔父のフリをしてわたしを守ろうとするのが許せない。好きなら、傍にいて守ってほしい。わたしだって、てっちゃんを守りたいのに。突き放して、守ろうとするのなんて、優しさじゃない。


 わたしが乱暴に立ち上がると、椅子が後ろにひっくり返った。


「薫ちゃん、ごめんね。ママがここにおいていかなかったら、こんな辛い思いしなくてよかったのに。全部ママが悪いね」


 涙声を出す、お猿のまぬけな顔を睨みつける。


「そんなこと言われても、何もかも手遅れだよ」


 そう、手遅れなのだ。だからてっちゃんも、覚悟を決めて自分の気持ちをわたしに言ってほしい。


 わたしは台所を飛び出し、おじいちゃんの書斎の重いドアを勢いよく開け放つ。秘密の部屋に押し込められていた思いを、今こそ解放する時。そう思ってデスクの引き出しを開けた。


 指輪をてっちゃんの目の前に突き出せば、わたしへの気持ちを言葉にしてくれる。そうしたら、わたしもてっちゃんにちゃんと好きだって言える。


 好きだから、いっしょにいたいって言える。そう思ったのに。大人の男はずるい。ちゃんとお子さまのわたしの行動なんて見透かしていて、先回りして自分の気持ちをなかったことにする。


 引き出しの中にあった指輪は、きれいさっぱり姿を消していた。もちろん、源氏物語の文庫本もくしゃくしゃに丸めた気持ちも何もかも。夢だったんじゃないかと思うぐらい、そこから存在を消していた。

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