第4話 家族とは

「はあ、ほんと京都の夏ってえぐいほど暑いんだね」


 大学の校内で次の講義室への移動中、日傘をさした里花ちゃんが愚痴をこぼす。周りには同じような移動中の学生たちや、あき時間なのかのんびりベンチに座っている人もいる。


 この大学のキャンパスは緑が多く、木漏れ日が石畳の道に落ち繊細なレースのような影をつくっていた。


「そうだね、でも祇園祭りがまだ終わってないから、これからもっと暑くなるよ」


「うそっ。そうなの。信じらんない」


 七月に入り、まだまだ梅雨は終わっていない。しかし、時たま顔を出す太陽は、確実に夏の日差しをまき散らしていた。


「里花ちゃん、夏休みに愛媛の頭木くんの実家に誘われたんだけど、行かない?」


 梅の収穫の時に、頭木くんに言われたことを思い出して訊いたのだが、


「うーん、行けたとしても、行かないかな」


 里花ちゃんの返事に含みがある。


「どういう意味?」


「わたしが行ったら、お邪魔だし」


「なんで?」


 わたしの疑問に、里花ちゃんは答えず大きなため息をついた。


「実家帰るからね。彼氏にも会いたいし。夏はいろいろ予定つまってるの」


 そうだ、里花ちゃんは親元を離れ下宿しているのだ。お母さんのいる実家に、帰るのは当然。おまけに、彼氏は東京という遠距離恋愛中だった。


「そうだよね、お母さんにも会いたいよね」


 わたしのあいづちに、里花ちゃんは変な顔をする。


「へっ? お母さんに会いたくて実家帰るんじゃないよ。京都が暑いから、涼しいとこに帰るだけ。実家なら、電気代気にせず、クーラーがんがんに使えるし」


「そうなんだ……。離れて暮らしてるから、さみしいのかと思った」


「離れていても家族なんだから、さみしくないよ」


 離れていても家族……。わたしは、里花ちゃんほど強くこの言葉を言い切ることはできない。わたしとてっちゃんは、あの家にいっしょに暮らしてるから家族のていを成している。


「でも、離れてる間に困ったことや病気してないかとか、心配じゃないの?」


 稲光に浮かび上がった『裏切り者』と書かれた紙が、頭の片隅にずっと引っかかっている。そして、頭木くんが見たという我が家を覗いていた人のことも。


 てっちゃんは張り紙を見て、「暇な人やな」って笑っていたけど、その場にいたマイケルもママも誰も笑わなかった。


 ママが、「警察に届けたら」と言ってもこれぐらいじゃ動かないと、てっちゃんは取り合わなかった。


 唯一マイケルが防犯カメラぐらいは付けろと言った言葉には、素直に検討すると返していた。


 今わたしの隣を歩く里花ちゃんは、くるくると日傘を回し始めた。


「そんなこと心配してたらきりがないって。何かあったら連絡が来るだろうし。お母さんは、彼氏じゃないんだから。家族とは適切な距離が心地よく、彼氏とは人肌を感じる距離でいたい。これ、真理」


 おどけた調子で里花ちゃんは、彼氏とハグするように日傘の柄を抱きしめた。


 わたしは、わたしの知らないところでてっちゃんが困っていたり、病気になっていたらと思うだけで、どうにかなってしまいそうになる。


 普通の家族になろうとしたのに、こんな感情をもつことは家族として不健全ということだろうか。


「彼も、岐阜に帰省するっていうから、会えるの超楽しみなんだ。それも帰省の理由」


 ぽっちゃりした頬をかわいく染めた里花ちゃんは、目じりを下げてわたしを上目遣いで見る。


「だから薫ちゃんは、ひとりで頭木くんの実家に行っておいで。頭木くんの気持ち、いい加減気づいてあげなよ。彼、優しいし素敵な彼氏になるって」


 頭木くんの気持ちには、薄々気づいている。でもその気持ちに応えられないから、優しさにつけこんで気づかないフリをしている。わたしって、ずるい。


「わたしも、やめておくよ。えっと、同居してる叔父さんが仕事忙しくて。忙しくなると、すぐにご飯とか食べなくなるから。わたしが見張ってないと」


 家族の健康を気にするのは、家族として普通のことだ。変な感情が入りこむ隙はないと、思ったのはわたしだけだった。里花ちゃんは、小さな口を尖らせる。


「あのさ、他人が口出すことじゃないけど、叔父さん、薫ちゃんに甘えすぎだよ」


 思いもよらず、てっちゃんが悪く言われてしまったことに動揺し、わたしは必死に弁解を始める。


「甘えとかじゃなくて、わたしが叔父さんの役に立ちたいだけだよ。だって、お世話になってるんだから」


「ごめんね。キツイ言い方かもしれないけど、普通家族ならお世話になってるなんて思わないよ。そういう気持ちで叔父さんと暮らすの、辛くない?」


「そんなこと……」


 口先だけの弁解は、どんどんわたしとてっちゃんのいびつな関係を露呈させる。お世話になっているからじゃない。てっちゃんのことを好きだから、心配でそばを離れられないのだ。


「薫ちゃんの叔父さんって、わたし見たことないけど、ひょっとして、めっちゃイケオジとかなの? それなら、薫ちゃんの心配もわかるかな。女の人がほっとけないような人なんでしょ」


 ……するどい。この眼力。将来優秀な弁護士になる素養十分だ。わたしの無言の反応を肯定ととらえたようで、里花ちゃんは一気に色めき立つ。


「ねえ、写メとかないの。薫ちゃんのイケオジ見たい見たい!」


 里花ちゃんが立ち止まり騒ぎ出したので、わたしも足をとめた。それがいけなかったのか、うしろを歩いていた人がわたしをよけきれずにぶつかった。


 ぶつかられた瞬間、左の手の甲にするどい痛みが走る。その痛みに気を取られ、数秒遅れてぶつかった人の後ろ姿を探したけれど、ふっと書き消えたようにどこにも見つけられなかった。


「大丈夫? 何あの人、謝りもしないで。ダボっとしたカッコしてたから、男か女かわかんなかった」


「いや、急に立ち止まったわたしが悪いんだから」


 そうは言っても、手の甲がジンジンと傷む。ぶつかった時、バックの金具があたったのだろうか。右手で左手の甲にふれようとしたら、ぬるりと濡れた感触に指がすべる。こわごわ甲を見ると血が滲んでいた。


「嘘! 怪我してる。医務室いこ」


「いいよ、これぐらい。ばんそうこう貼ったらいいだけだから」


 ことを大げさにしたくないわたしは言いつくろったけれど、里花ちゃんは強い口調で言い募る。


「その怪我、普通の傷口じゃないよ。スパッと綺麗に切れてるから、剃刀とかで切られたみたい。あの人、わざと薫ちゃんにぶつかったんだよ」


 たしかに、手の甲には横に真っすぐ三センチほどの傷ができている。ぶつかった時、刃物で切られた? まさかそんな、大学の校内でそんな通り魔みたいなこと。


「わざとじゃないって。たまたまだよ。何か鋭いもの手に持ってただけかもしれないし」


 わたしが強く否定したので、里花ちゃんも不服そうな顔はしていたけれどそれ以上騒ぎたてなかった。


 わたしは水道をみつけ、傷口を洗い流し持っていたばんそうこうを張ったのだが、痛みは治まるどころがジンジンと体全体をむしばんでいった。

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