第3話 閃光
「たいしたことない。誰かのいたずらや。これ、あく抜きするんやろ」
てっちゃんは戸棚からホーロー鍋を取り出し、梅を入れた。梅は酸性なので鉄製鍋が使えないのだ。
梅がつかるくらいの水を入れ、弱火にかけた。最近は、台所に立つことなんてめったにないのに。というか、わたしと二人の時間をさけているようにも思えた。
それなのに、今日は手伝ってくれる。たとえ、ストーカー問題をごまかしたいだけかもしれないけれど、いっしょに料理できるのはうれしい。
「まあ、てっちゃんがそう言うならたいしたことないんだよ」
ママの楽観的な声を受け、マイケルが髭をさする。
「なるほど、ストーカーというよりも別れた女かもしれないな。じゃあ、俺はいったん帰る。また夕方来るわ」
マイケルはダイニングテーブルの上に三嶋亭のお肉をおくと、入って来た縁側から出て行った。
「ねえ、ほんとに無言電話だけ?」
マイケルの残した別れた女というフレーズで、朧さんの強気な笑顔がフラッシュバックする。
「薫は何にも心配せんでええ。それより七月入ったら、そろそろ試験やろ。僕のことより自分のこと心配し」
心配させないために、突き放した言い方をてっちゃんはする。たしかに、七月に入れば、レポート提出や試験の準備で忙しくなるけれど。心配は心配だ。
「梅のあく抜き、何回するんやった?」
沸々と泡が底から沸き立つタイミングで、鍋の中をてっちゃんはのぞき込む。
「今みたいに気泡ができるぐらいの温度で、お湯を捨てる。それを三回ね」
「熱々やとあかんのやな。わかった。梅の甘露煮おいしいよなあ」
さきほどの思いつめたてっちゃんから、いつもののん気なてっちゃんに変わり、わたしはつめていた息を吐き出した。
「じゃあ、てっちゃん甘露煮してくれる? わたし、焼き肉の用意するから」
「おっ、ええで。上にいて聞こえてきたけど、お肉は三嶋亭やろ」
「そうだよ。ちゃんと、マイケルにお礼言ってね」
てっちゃんは青い目を上に向け、「はい、はい」とおざなりな返事をした。最近の湿りがちな会話しかしていなかったわたしの口は、軽快に弾む。
「はい、は一回。もうてっちゃん、大人でおじさんなんだから礼儀はちゃんとする」
「おじさんは、余計やろ」
わたしたちが叔父と姪を装い、心の奥の甘酸っぱさをかくしたような会話をする姿に、ママは背中を向けて居間へ入って行く。また、寝っ転がるのだろう。
梅の甘露煮は三回あく抜きをして、水と梅の量より少し少ない分量で砂糖をどっさり入れコトコトと弱火で四十分ほど煮詰める。
丁寧に針で穴をあけたので、皮が破れずに綺麗に煮上がった。黄土色の艶のある見た目と甘酸っぱい匂いが食欲をそそるけれど、まだまだ食べごろではない。
粗熱をとり、梅を平らな容器に並べ残った煮汁を回しかける。そして、ラップをかけて冷蔵庫で一時間冷やすのだ。
てっちゃんは鍋に入れる砂糖の量に驚いていたけれど、美味しいものにカロリーはつきものだ。
焼き肉の野菜、キャベツにもやし、なすびにピーマンをわたしが切り終えたところで、てっちゃんが、甘露煮の味見を要求してくる。
「まだ冷蔵庫に入れて、十分しかたってないよ」
「ええやん、ちょっとだけ。小腹すいたし」
「もう、子供か」
わたしは呆れつつ、てっちゃんのお目目をキラキラさせたお願いには抗えないので冷蔵庫から甘露煮を出した。まだ味は染みてないようだけど、てっちゃんが我慢できないならしょうがない。
ひょいっと、一粒梅の実を口に放り込んだとたん、てっちゃんの顔のパーツが中央による。
「甘ずっぱ! でも、口の中でトロトロにとろけるわあ。おいしい」
そうこうしていると、居間からママがねぼけた声を出してやってきた。
「なんか、雨降りそう。マイケル、早く来ないと雨に降られちゃうよ」
ママはなんやかんや言って、マイケルを気に掛ける。その気遣いは、友情なのか愛情なのか。
「ほんとだ。縁側の戸を閉めて、クーラー入れようか」
わたしが縁側の戸を閉めていると、門扉のところにダークブラウンの髪が見えた。すぐに玄関の戸が開きマイケルの「雨の降る前に来たぞ」と声が聞こえてくる。
台所に入って来たマイケルの手には、紙切れが握られていた。
「この紙、さっきは門に貼ってなかったのに。なんて書いてあるんだ。俺、漢字よめないから。何かのまじないか?」
一瞬すだれの向こうの空に閃光が走り、雷鳴がとどろく。とうとう雨が降り出したようだ。
マイケルが手にした紙には、稲光が走ったような荒々しい字で『裏切り者』と書かれていた。
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