第3話 英語劇

 わたしは手元の緋色の分厚い布に針がなかなか通らず、イライラしていた。てっちゃんが時間通り学校にやってくるか、気になってしょうがない。


 自由業のてっちゃんは時間にルーズ。仕事仲間からは、徹舟先生ならしょうがないという感じで何時も許してもらっている。でも、わたしはそんな甘やかしたりしない。生姜焼きの横にメモまでおいてきたのだから。


 放課後の教室では十月の文化祭で上演する、英語劇の立ち稽古が行われていた。受験生だけれど文化系の三年生は、この文化祭が終わってから引退となる。


 上級生の三年生は劇の中心となり役付きになるのが普通だ。しかし衣装係になったわたしは、英語劇だというのに緋色の袴を繕っていた。


「普通英語劇ってうたら、演目は洋物やろ。なんで毎年、源氏物語なん?」


 わたしと同じ三年生のあおいちゃんが、顧問の先生に聞こえない程度の声でぼやいた。あおいちゃんに役はついているが、出番が少ないので手伝ってもらっている。


 この英語部は下級生が少なく、存続が危ぶまれている部なのだ。


「しゃあないやん。毎年源氏の英語劇するのがこの部の伝統なんやって」


 同じくお手伝いのあーちゃんが、軽くあしらう。


 今年の演目は幼い紫の君を源氏が引きとって育てる、若紫の帖を中心に台本が書かれている。今まさに黒板の前に設えられた舞台で、高身長イケメン女子、雲井さんが源氏に扮していた。


 対する紫の君は、奇跡のベビーフェイス男子霧山くんがかわいらしい声で「Inuki let a sparrow go.」そう言って目をこすっていた。泣く演技も様になっている。


 ちなみに二人は家がお隣さんの幼馴染なので、息もぴったりである。毎年代わり映えしない源氏物語という演目に、今年は男女逆転というひねった要素が投入されている。


 目新しさというよりも、脚本を書いた部長の趣味を反映しているのだと思う。


「光源氏って絶対ロリコンやんな。十歳の紫の君を拉致って自分の理想の女にしようなんて、ギャルゲーにはまるロリオタといっしょやし」


 あおいちゃんは、針仕事にあきて光り輝くイケメン源氏をディスり出した。


 そうだよね。わたしもそう思う。でも、日本文学史上燦然と輝く傑作文学とギャルゲーをいっしょにするのは、さすがに紫式部に失礼なような気がするよ、あおいちゃん。


「去年は、宇治十帖の昼ドラかよってくらいのドロドロ三角関係やったな」


 あーちゃんは、わたしが何もしゃべらないのであおいちゃんの話に合わせてあげる。ちなみに宇治十帖というお話は、薫の君と匂の宮に迫られる薄幸の美女浮舟が、二人の間をふらふらするお話。


 ハイスペック平安男子が、源氏物語の中で最も最下層ヒロインに、二人してメロメロって。光源氏の死後の番外編的なお話であっても、それでいいの? 


 光源氏のキラキラ恋愛譚を楽しんでいた読者の期待を裏切るって、紫式部は躊躇しなかったのだろうか……なんていらない心配をしてしまう。


 まあ、恋愛経験ほぼほぼゼロのわたしにとって、入れ食い状態の光源氏の恋愛でも、愛憎渦巻く三角関係であっても、皆目わからん。


 平安時代の恋愛は政治的に結びついていたらしいけれど、もしわたしが貴族だったら恋に精を出すよりも宇治で隠遁性格していた方が楽しいな。


 恋愛なんて、するもんじゃない。


「そういえば、宇治十帖の薫の君って薫とおんなじ字やん。薫の君は薫がやったらおもしろかったのに」


 ご冗談をあおいちゃん。そんな舞台に立つとか絶対に無理です。英語部って英検の勉強でもするのかと思ってクラブ見学もせずに決めたわたしが悪いけれど、まさか英語劇をする部活だとは思わなかった。


 そもそも家事に忙しいので部活に入らないつもりだったのに、てっちゃんに何か入った方がいいよって言われて入っただけなのだ。


「今年は誰が中入るんやろな、未来くん」


 あーちゃんが、突然思い出したように言った。


「毎年、生徒会の誰かって決まってるやん。しっかし十月ってまだ暑いのに着ぐるみ着るのかわいそうやな」


 未来くんとは二頭身の牛若丸らしきゆるキャラで、昔盛大におこなわれたイベントのキャラクターだ。そのイベントが終わったあと、なぜかうちの高校に払い下げられ、文化祭で場を盛り上げるのに登場するのが伝統になっている。


 源氏物語の英語劇だったり着ぐるみだったり。高校の文化祭というものは、コンセプト不明の伝統が渋滞している。


 あおいちゃんがしみじみ汗だくになって着ぐるみを着る生徒会役員に、心底同情していると、

「源氏の話に戻るけど、二人の年の差って八歳やろ? 十年たって、二十歳と二八歳やったら全然ありやで。薫もそう思わへん?」


 あーちゃんが、ずっと黙っていたわたしに話をふる。突然すぎて、思わず針で指をさしてしまった。指をくわえながら「そうだね」ともごもご返す。


 でも、紫の君は源氏のことやさしいお兄さんって思っていたのに、ある日突然妻にされちゃうんだから、それはそれでどうよって思うけどなあ。


 紫の君にしたら、信じていた人に裏切られたって思うよね。今ならトラウマものだ。


「そういえば徹舟先生っていくつなん?」


 なんでこの話の流れでてっちゃんが出てくるの。わたしは別に拉致られてないし。若く見えるけれど、結構年くってるんだよ。


「……三五歳」と脳内のセリフをすべてはぶき、シンプルに答えた。


「わたし、徹舟先生となら十七ぐらい離れてても、全然ありやわ~」


 どこかに向かって妄想をふくらませているあーちゃんの横で、あおいちゃんが耳打ちする。


「薫、今日三面やろ。ここはもうええし、あーちゃんが気いつく前に行き」


 入学式でてっちゃんを見かけてから、あーちゃんはお熱なのだ。学校で見るてっちゃんはたしかに目立っていた。


 金髪が映える深い青磁色の長着ながぎに、揃いの羽織を着た和装姿だったのだから。普段美意識なんてどこへやらという生活をしているくせに。外出時のみ、極小的な美的センスを発揮する。つまり外出着がすべて和装なのだ。


 これには小学生の時から苦労させられた。どっからどう見ても和顔のわたしの保護者が、金髪和装王子なのだから。


 おまけに平日でもふらふらしている。参観では、わたしのクラスだけお母さんたちですし詰め状態。運動会では、子供そっちのけでてっちゃんの写真を撮りまくるお母さん。その横には半笑いのお父さんの姿がそこここに。


 できるだけ目立たないよう端っこにいたいわたしとしては、てっちゃんが手を振ってくれるたび、針の筵を全方向からかぶせられる気分だった。


 だから高校では、極力てっちゃんが学校にくることを遠回しに断り、わたしは存在を消して空気に徹していた。


 三年生になった現在でも、状況はかわらない。あまり誰からも話しかけられないが、人見知りのわたしにはありがたい。


 英語部であおいちゃんとあーちゃんと仲良くなれたのは、ひとえにふたりがすごくいい人だからだ。

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