第2話 金髪王子

 部屋の中、エアコンのなごりの冷気が心地いい。今日の予報は晴れだったことを思い出す。床に散乱する本やファイル、資料の束に気を付けながら奥へ進む。道に面した東側の窓。そこにはめられた磨りガラスごしに、朝日がさしこんでいる。古めかしい木製のさんに手をかけた。


 あけ放った窓の外には秋晴れの空が広がり、そばを流れる大きな川から、とうとうと流れる水音と清々しい風が同時に入ってくる。


 昨日の大雨がうそのよう。ああ気持ちいい。しばしわたしは今日一番の心痛、三者面談の事を忘れ風に吹かれた。三者面談は通常七月の一学期末に行われる。しかし、家主の仕事の進捗状況が芳しくなく、三者面談はお流れとなったのだが……。


 高三の受験を控えた大事な時期の三者面談はキャンセルとならず、延期となり今日を迎えた。別に、なくてもいいのに。


 湿り気のない乾いた風は、わたしのすこし癖のある髪はなびかせ、南の窓辺におかれた文机の上の原稿用紙をめくりカサカサと音を鳴らす。


 家主の血と涙と汗の結晶。そして飯のタネである大事な原稿。あわてて飛ばされないようにまとめ、束にしてガラスのうさぎの文鎮を上におく。


 原稿用紙はオーダー品で「八宮徹舟はちのみやてっしゅう」と名が入っていた。今どきの作家はほぼ百パーセント、パソコンで執筆しているだろう。有名作家でもないのに、オーダーの原稿用紙なんて贅沢品だ。けれど、それでないと書けないと言われてはしょうがない。


 布団の中で丸まっている家主に声をかける。


「てっちゃん、今日の三者面談四時半だから。絶対、遅れないでね」


 てっちゃんは、「わかってる~」と京ことばのイントネーションで、くぐもった返事をしつつ、寝がえりをうった。


 その拍子に肌布団からはみ出た金色の髪が、額にこぼれ落ちる。さんさんと降り注ぐ朝日に輝く金の髪。今は布団に隠れて見えないが雪のように白い肌。高い鼻梁に口角のあがった薄い唇。極め付きは、南国の海のごとく澄んだ碧眼の持ち主、てっちゃん。


 九年前初めて会った時、童話の中の王子さまが本の中から飛び出してきたと本気で思っことは、もうすでに懐かしい


 しかし、物の散乱する雑多な和室の中、薄い布団に浴衣を着て、疲労困憊して眠りこける姿は、プロレタリア文学へ紛れ込んだ、グリム童話の王子ぐらい違和感がすごい。


 生きるカテゴリーエラーに、ミヤが飛び乗った。徹夜で原稿を仕上げていたのだから、てっちゃんの安眠を、じゃましてはいけない。


 そっとミヤを抱きかかえ、部屋を出た。


 年代物の居間の柱時計をちらりと見つつ、玄関へ急ぐ。ローファーをはき、下駄箱の上の鍵をとろうとした。鍵には小学校の修学旅行で買ったゆるキャラのキーホルダーがついている。他にもジャラジャラと家中の鍵がついているから重く、取り損ね落下した。


 上り口におかれた片方だけのアイスブルーのパンプスは、鍵があたって転がった。そんなものは見なかったことにして、わたしは鍵だけ拾い、建付けの悪い玄関戸を乱暴にあける。


 四六時中てっちゃんが家にいる――寝ていることが多いけれど――から、昔は鍵なんてかけずあけっぱなしで登校していた。けれど最近このあたりにも泥棒が出没するようになって、今はしっかり鍵をかける。


 誰も「いってらっしゃい」と言ってくれなくても、毎日かならず「いってきます」と口にしてから学校へ向かった。


 自転車で一気に坂道をくだり、川沿いの道へ出る。川筋にそってしばらく走ると、大きな橋が見えてきた。


 この橋のたもとで八月になると、毎年花火大会が行われていた。でも数年前、資金繰りがお手上げ状態になり、市は休止を決定。それ以来、一度もこの場所から花火はあがっていない。


 川風がふきぬけ橋を渡ると、昨日の雨で川は茶色く濁り轟音を轟かせている。上流にもう一本、中州から対岸にかけられた朱色の橋が見えた。観光用で人しか通れない朝霧橋には、朝早いというのに観光客がもう歩いていた。


 ここは平安貴族の別荘地。お茶と極楽浄土を模した千年前の寺院で有名な街。最近のインバウンド景気に乗っかろうと、お茶押しがすごい。


 市民の冷たい視線にも気づかず、お役所企画でお茶の国から来た王子さまのゆるキャラまで作る始末。


 わざわざこの街に宿泊せずとも、大都市から電車一本の近距離。世界の観光都市である京都市と比べ見劣りする……ではなく、ゆるい観光地のお世話になってはや九年。


 ママに捨てられた九歳の少女は、節約にまい進する所帯じみた立派な女子高生になりました。いや、言葉が悪い。雅な貴族の別荘地で趣ある古民家に住みながら、スローライフを楽しんでいるのだ。


 あーそれにしても、今日の夕飯なんにしよう。

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