第6話 朧さん

 クラシックなデザインのカンカンをあけると、猫の形のクッキーがぱっと目の前にあらわれた。猫だけでなく、肉球やお花の形をしたピンクやグリーンの色とりどりのクッキーは、もう見た目だけで百点満点だった。


「ありがとうございます」


 缶を開けた感動を言葉に表せることができず、最低限の謝辞ですませた。朧さんとは、電話ではうまく話せるけれど、顔を突き合わせるとなかなかうまくしゃべれない。


 バリキャリの大手出版社の編集という華々しいお方で、おまけにインテリ美人というそつのなさなのだ。


 今日も、お高そうなパンツスーツをビシッと着こなしてらっしゃる。都の外れのよれよれの部屋着を着てエプロンをしているしがない大学生は、気後れしてしまう。


 朧さんの前に、おずおずとアイスティーをお出しする。もう夜の八時を回っている。


 こんな時間にカフェイン入りの飲み物を出すのって非常識なのだろうか。でも、朧さんはこれから最終の新幹線で東京へ帰るのだし。


 汗をかくアイスティーのグラスをにらみながらグズグズ考えていたら、朧さんから話し出してくれた。


「ごめんね、こんな時間におしかけて。思いのほか打ち合わせが長引いちゃって」


「いえ、うちはいいんですけど、お食事本当に大丈夫ですか?」


 今日は講義の後、二時間ほど典子さんのところでアルバイトをしてきたところだ。いつもの源さんの松花堂弁当を朧さんの分も用意してもらった。


 夜の訪問と訊いていたので、いつもお世話になっている編集さんにお茶だけというのも悪いと思ったのだが。


 あっさりと、打ち合わせで食べてきたと断られた。


 食べてくるなら食べてくるって言ってほしい。てっちゃんは明日の昼ご飯も、同じお弁当を食べるはめとなったのだ。まあ本人は、ラッキーと思っているかもしれないが。


 てっちゃんは食事の片付けを終えると、さっさと二階へあがり執筆再開。四日後の〆切に只今追われている。朧さんが来たと気づいているだろうけれど、降りてくるわけもない。


 朧さんも朧さんで、担当作家に用事があるふうでもない。いったいここに何をしにきたのだろう。


 仏間の空気が、重苦しい。お猿のママはぬいぐるみのフリをして、わたしたちの会話を仏壇の横で聞いている。


「えっと、今日はどういったご用件で……」


 わたしがうながすと、頬にかかる長い髪を耳にかけながら朧さんは口を開いた。


「今日きたのは、薫ちゃんにお願いがあったのよ」


 その緊張をはらんだ声に、クッキーをつまんで場を和らげようとしていた手がとまる。


 まさか出版不況にともなって、原稿料の値下げ交渉だろうか。それには、断固反対しなければ。


 それにこちらは、天下の門山賞作家だ。いまからもっと売れていく――たぶん――作家が足元を見られるわけにはいかない。


 こっちだって生活がかかっているのだから。クッキーごときで、納得させようとしたってそうはいかない。


 意を決し、ごくりとつばを飲み込み抗議しようとしたら、先をこされた。


「もうすぐ、徹舟先生にお見合いの話がくるから、それに嫌だって言ってほしいの」


 ……てっちゃんに、お見合い?


 なんのこっちゃ……予想だにしないお願いに、思考回路は停止する。まじまじと、朧さんのお美しい顔を凝視して言葉も出ない。


「何のことかわからないよね。ごめんねこんなこと突然言い出して、実は……」


 朧さんの説明によると、文壇の重鎮、勅使河原てしがわら先生の姪御さんがてっちゃんのファン――主に顔――らしい。独身のてっちゃんとの縁談を進めようとしているそうだ。


 その話を朧さんは、勅使河原先生の担当から聞いた。


「勅使河原先生、薫ちゃんに彼氏ができたって聞いたからなんですって。徹舟先生と薫ちゃん、実はそういう関係じゃないかって疑ってたんだって。そんなわけないのにね」


 わたしに何時、彼氏ができたのだろう。そういえば、この間てっちゃんが勅使河原先生と飲んだ時典子さんが、わたしが男の子と歩いていた、あれはそのうち付き合うだろうと言った。それだけのことだ。


 仮定のはなしが断定となる老人の思考回路は、どうなっているのだ。


「薫ちゃんは、徹舟先生の妹みたいなものよね。それがデキてるとか、もう笑っちゃうわ」


 さもおかしそうに笑う朧さんの言葉尻に、幾分わたしへのあざけりが入っていることに、気づきたくないのに気づいてしまった。


 そうですよね、わたしなんてコミュ障な田舎の大学生ですよ。今をときめく(?)純文学作家とそういう仲なわけないですよね。


「あのでも、どうして縁談に嫌って言わないといけないんですか?」


「だって、私が徹舟先生と結婚したいから」


 けろりと重大発言をかます朧さんに、一点の曇りもない。


「私と徹舟先生、昔付き合ってたのよ。今は仕事の関係ってわりきってたんだけど、縁談の話を聞いたら、居ても立っても居られなくなっちゃって。やっぱりまだ、好きなのよねえ」


 朧さんはうっとりと、乙女の瞳で二階を見あげる。


「そう、なんですか……」


 だからどうした。わたしにまったく関係ない。


「今度私から、プロポーズをしようと思うわけ。なので、縁談は角がたたないように薫ちゃんから断ってほしいの」


 ……私を巻き込まないでほしい。それにしても、さながら源氏物語の浮舟争奪戦だ。さしずめ、朧さんは匂宮で、薫をだしぬいて浮舟をさらおうって計画か。突然の恋敵の登場で、不確かだった愛が一気に燃え上がったというわけだ。


 でもそれは、犬が餌をとりあげられたらかむ行為と同じ反射行動にすぎない。それって、愛と呼べますか?


 しかし、古今東西の物語の中で繰り返されてきた盛大なテンプレだ、テンプレは真理。

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