第50話二〇三高地攻略戦、その後①

 自分は、草木が一本も生えていない大地を歩いていた。


 何故、そんなところを、しかも夜間に歩いていたのかは忘れてしまった。


 多分、殺し殺され合う現実に飽き飽きして、上官や兵卒たちの目を掠めて外をそぞろあるきたくなったのだと思う。




 外は――酷い有様だった。


 そこここに死体が転がり、爆弾で捲りあげられた黒土が、まるで大地が血を流すが如くに地表を汚している。


 ここいらは既に日本軍が手に落ち、あらかたの戦闘は終結していたはずだが、それでも残党勢力による散発的な戦闘は続いていたし、奉天や黒溝台の方ではまだ戦闘が継続中だと聞いている。


警戒に越したことはない状況だったが――もう「自分」にはどうでも良いことのように感じられていた。




 「自分」は、じっと手のひらを見た。




 この手が、一体何人を手に掛けたのか、もはや数えることすらなくなっていた。


 おそらく数百名は殺めたに違いない手を見て、「自分」はふと、その場に蹲りたくなるような嫌悪感と恐怖に苛まれた。




 もう「自分」は「自分」ではない――。


 もう二度と、あの山奥で平和に田んぼを駆け回っていた頃の「自分」には戻れないのだと、莫大な喪失感が喉元に込み上げてきて、遂にはうめき声となって漏れ出た。




 俺は、俺という男は、もう立派な人殺しだ。


 この手で銃剣を振り回し、引き金を引き続け、敵の首をねじ切ることまでした。


 「自分」に殺される直前の露助たちの、恐怖に塗れた目が次々と思い出されてきて、気分が悪くなる。




 日本に帰ったら、俺の家族はどんな顔をして俺を迎えるのだろうか。


 立派に戦ったな、と、俺の血に塗れた手を取って微笑むのだろうか。


 一族の誇り、いや日本の誇りだと、そんな風に褒めそやすのか。


 やめろ、やめてくれ、そんなことはやめてくれ。


 俺はただの人殺し、英雄などではない。


 


 英雄になどなりたくなかった。


 ただ俺は、俺という男は、死にたくなかっただけなんだ。


 死にたくなかったから、殺すしかなかった。


 戦場というのはそういう狂った場所で、俺はそこに一番よく適応してしまった。


 死にたくないから殺す、そんな単純で狂いきった現実を誰よりもよく受け入れただけ。


 俺は――俺という男は、生まれついての、人殺しだっただけなんだ。




 はっ、はっ――と、自分の呼吸音以外、何も聞こえなくなった。


 もう二度と立ち上がれないのではないかという絶望の中に――ふと、自分のものではないうめき声が聞こえたのは、その時だった。




 「自分」は顔を上げ、何故か引き寄せられるかのように、声のした方に向かって歩き出した。


 破壊された機関銃を蹴散らし、累々と転がる死体を避けて、塹壕を飛び越え、千切れた鉄条網を越えた先に――ロシア軍が据え付けた大砲が、ごろりと横倒しになって倒れていた。




 その陰に――一人の男がいた。


 思わず身構えると、どうやら友軍ではなく、露助であるらしかった。




 男は躍起になって、倒れた大砲の下から抜け出そうとしているらしかった。


 日本軍が投入した二十ハセンチ榴弾砲の爆発を受けて吹き飛んだのか、大砲は男の左腕を押し潰しており、男はうめき声を上げながら倒れた大砲の台座を蹴りつけていた。




 おい、と、「自分」は露助に向かって声をかけた。


 その呼びかけに、露助はぎょっとした表情でこちらを向いた後、強張った顔で「自分」を凝視した。




「Росомаха……!」




 その「ろそまは」という仇名を、その露助も知っているらしかった。



 愕然としたような表情でこちらを見た露助は、何かを観念するかのような表情で沈黙した後、こちらを真正面から見つめ、思いがけないことを言った。




「命乞い、しないです。殺す、ください」




 今度は「自分」がぎょっとする番だった。


 今、この露助――否、この男はなんと言ったのだ?


 絶句している「自分」に向かい、男は震える声で尚も言った。




「私、日本、いたことある。日本、Япония、とてもいい国――」




 たとたどしい中にも、真剣な感動と信頼を滲ませた声だった。


 呆然と男の言葉を聞いて言ると、男は辛そうにぎゅっと目を閉じた。




「戦争、悲しい。私、日本の人、殺したくない。美しい国、優しい国、とても――」




 男の目尻に、光るものが見えて、「自分」は激しく動揺した。


 敵だとばかり、言葉も心も通じ合わないケダモノとばかり思っていたロシアの人間が、片言ながらも日本語を口走り、この戦争を悲しいと言ったことで――「自分」の中で押し殺していたものが徐々に蘇ってきた。




「けれど、私の父、怒る。日本が敵、戦わない、私に許さない。もう私、疲れた。殺す、ください――」




 それはまるで懇願だった。


 本来は美しかったのであろう、金とも、銀とも言えない髪は煤と土埃にまみれさせて、男は疲れ果てた表情でそんな事を言った。




 ああ、この目だ、人間の目――。


 


 なんだか随分久しぶりに見る、憎しみと殺意に濁っていない男の青い目を見て、何だか急に、「自分」の胸の奥底から湧き上がってくるものがあった。




 ぽたぽた、と、何かが手に滴り落ちる感触があって、自分ははっと上を見た。


 雨雲の気配はなかった。しばらく、その雫の出処を探して――「自分」はやっと。己が泣いているらしい事に気づいた。




 目の前の男が、息を呑んだのがわかった。


 ぐい、と、自分は血に汚れた軍服の袖で、目元を強く強く拭った。




 そのまま、銃剣を地面に突き立てて、「自分」はのしのしと、横倒しになった大砲に近づき、その台座を渾身の力で持ち上げにかかる。


 鋼鉄の塊である大砲を素手で押し退ること――一瞬、下敷きになっていた男は自分の突然の挙動に驚いてから、無理だ、というようなことをロシア語で口走ったようだったが、構いやしなかった。


 そのまま雄叫びを上げ、全身に力を込めると、まるで玩具のように大砲は持ち上がってゆき――遂にごろりと一回転して、下敷きになっていた男が解放された。




 しばらく――男は怪物を見るような目で「自分」を見ていた。


 その視線に構わず、自分はとりあえずというように地面に座り込んだ男の隣に、どっかりと腰掛けた。




 何故、自分を助けた。


 驚愕の表情の後、男はそう言いたげな表情で「自分」を見つめた。


 よくよく見ると、男はどうやら「自分」と同じぐらいの年齢の、まだあどけなさが残る青年の顔立ちをしていた。




「あんた、日本語わかるんだろ? 名前は?」




 その時出た「自分」の声は、この戦場に来てからの自分のものではないように聞こえた。


 名前を問われたことを理解したロシア人の青年は、少し迷ったような表情を浮かべた後、色素の薄い唇を動かした。




「――アレクセイ。アレクセイ・ポポロフ」




◆◆◆




もうすぐ完結します。


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