第51話二〇三高地攻略戦、その後②

「そうか、アレクセイ、ってのか。俺はフナサカ、フナサカ・サキチだ」




 フナサカ、と、口内で何度か繰り返した青年に、ふと思い出したものがあった。


 「自分」はごそごそと軍服のポケットを探り、すっかりくしゃくしゃになったタバコと、マッチとを取り出し「ん」とアレクセイに向かって勧めた。




 しばらく、迷ったようにタバコと「自分」の顔に視線を往復させたアレクセイは、それでもその中から一本を取り出し、口に咥えてマッチを擦った。


 ゆらゆらと、夜風に吹き消されそうになるマッチの火を、「自分」が両手で風除けを作ってやると、スパシーバ、とアレクセイがロシア語で応じる。




 タバコなど、本当に久しぶりに吸ったのだろう。


 しばらく、瞑目して実に美味そうに煙を堪能したアレクセイは、数秒後にはゴホゴホと思いっきり噎せ始めた。


 思わず「自分」が声を出して笑うと、明らかにムッとした顔でアレクセイが睨んでくる。




 「自分」も、タバコを咥えて火をつける。


 しばらく無言で煙をスパスパ吸うと、とんとん、と肩を突かれた。




 ん? と横を見ると、アレクセイが見たことのない金属のボトルを示していた。


 呑み口に鼻を近づけてみると、強く酒の匂いがする。


 露助というのは戦場でも酒を飲むのか、と驚いたが、酒の味など忘れて久しい身には嬉しさしかなかった。


 礼もそこそこにボトルを受け取って一口呷った瞬間――日本の酒とは別格の、まるでそれ自体が火であるかのような強さの液体が食道を流れ落ち、「自分」は目を白黒させて大いに噎せた。


 しばらく、気管にまで入り込んできた酒を躍起になって追い出していると、アレクセイがお返しだとばかりに声を出して笑った。




「おー、おー苦しい……! 露助ってのはこんな酒飲むのか。死んじまわないかよ」

「死なない。日本の人、お酒弱い。ロシア、この酒すごく好き」




 そう言って、アレクセイは上機嫌でボトルを一口呷る。本当にこんな火みたいなもの飲むんだな……と半ば呆れていると、アレクセイが指に挟んだタバコを一服した後、ぽつりと言った。




「この戦争、ロシア、負けます」




 その言葉に、「自分」は少なからず驚いた。


 アレクセイは大きな大きなため息をつき、視線を伏せた。




Царь皇帝、なにもわかってない。日本、弱くない国だ。Высо́кая203高地、陥落した。Балтийский флотバルチック艦隊、来る、でも何も変わらない。日本、この戦争に勝つ」

「……そんなもん、まだわかんねぇじゃねぇかよ。バルチック艦隊は世界最強の艦隊だって聞いてるぞ。悔しいけどよ、連合艦隊だって敵わねぇかもしれないぜ」

「ロシア、もうダメ。私、わかる。ロシアの人たち、怒ってる。戦争、お金かかってる、誰も帰ってこない――」




 アレクセイは再び大きなため息を吐いた。




「勝っても負けても、Иимперия帝国、長く続かない。きっと滅ぶ」

「そうか、お前がそこまで言うなら、あちらさんも色々とあるんだろうな……」




 「自分」もそこで、タバコを一服吸った。




「俺の国もよ、多分そのうち、いろんな問題が起きると思うぜ。今も百姓は貧乏のまま、戦争でしか食いつなげない国なんか間違ってるだろ?」

「間違っています。戦争、何もよくない」




 今戦場の只中にいる人間の会話ではないな、とも思いつつ、「自分」は軍服のポケットに手を入れ、中にあったものを取り出した。




「それでもよ、嫁ちゃんと生まれてくる子供のことを考えたら、こんなんでもしねぇと食わせてけねぇからな。因果なもんだよ、軍人なんて……」




 そう言って、「自分」は結婚して半年も経たぬうちに家に置いてきてしまった妻の写真を眺めながらぼやいた。


 そう、「自分」が人殺しになってでも生きて生きて生き抜かなければならなかった理由がこれ。


 妻はもう妊娠していて、医者の見立てが正確ならば、もう赤子が生まれているはずだった。


 生まれてくる子供、そして妻のために、「自分」は何が何でも生き残らなければ――そう決めて、「自分」は鬼になって戦い続けたのである。


 今頃、俺の子供はどうしているだろうか。妻に抱かれながら、いまだ顔を知らない父の帰還を心待ちにしているのだろうか――。


 


 緊張の面持ちで写真に撮られている「自分」と、その傍らで柔和に微笑む妻の写真を見ていると、アレクセイが、おっ、と声を上げた。




「奥さん、ですか?」

「おお、そうだよ。俺の嫁ちゃん。可愛い子だろ?」




 そう言うと、アレクセイが白い歯を見せて微笑み、軍服のポケットから一枚の紙切れを取り出した。


 差し出された紙切れに顔を寄せると――そこに写っていたのは、立派な軍装に飾られたアレクセイと、その側で仲良く肩を寄せ合って写っている、一人の女性だった。




「お、おいおい……露助の女の人ってすげぇな……お人形さんみたいじゃねぇかよ。お前の嫁さんか?」

「まだ結婚してない。約束だけ」

「婚約者、か。なるほど、お互いもう悪さはできねぇ身分ってことだな」




 その一言に、アレクセイがくっくっと声を出して笑った後、「エレーナ……」と、その写真の女性を見て、愛おしそうに名前を読んだ。




 俺も、自分の妻の写真を見ているときはこんな顔をしているのだろうか。


 こんな傷だらけになった顔でも、妻は自分のことを好きでいてくれるだろうか。




「あなたは、いい人です」




 不意に、そんな声をかけられ、「自分」はアレクセイを見た。


 端正な、よく出来たお人形のように無垢な顔で微笑まれて戸惑う「自分」に、アレクセイは更に語りかけた。




「私たちは……友達になれますか?」




 友達。


 その言葉に、「自分」はアレクセイの肩を小突いた。




「何言ってんだよ、もう友達じゃねぇか」




 くっくっく、と、つい笑い合ってしまった。


 ひとしきり、随分忘れていた声で笑った「自分」たちは、それを機に立ち上がった。




「死ぬなよ、アレクセイ」




「自分」は、そう言ってアレクセイの胸の前に「自分」と妻が写った写真を差し出した。


 その写真の裏に書かれていた住所は、「自分」がもし帰れなかった時のために、あらかじめ書いていたもの。


 俺はたとえ帰れなくても、写真だけは――そう思って書いていた住所だったが、その時の「自分」にはもう、自分が帰れないかも知れないという恐れが、なぜか消えていた。




 いいのか? というように写真と「自分」の顔に視線を往復させるアレクセイに、「自分」は更に言った。




「生きて生きて生き延びて、絶対に嫁さんを幸せにしてやれよ。そんでお互いに子供が生まれて、世の中が悲しくなくなったら、そん時は――一緒に、酒でも飲もうぜ。その酒、練習しとくからよ」




 はい、とアレクセイが頷いた。




「きっと、きっと、生き残ります。フナサカも、きっと――」




 アレクセイの言葉に、「自分」はとっておきの啖呵を切った。




「俺の心配は要らねぇよ。俺は――不死身の船坂だぜ」




 不死身のフナサカ。


 アレクセイはその言葉を忘れんとするかのように、大事そうに呟き、右手で握手を求めてきた。




 「自分」もその手を握り返し――後は、もう何も言うことなく、互いの陣地に向けて背を向けて歩き始めた。




◆◆◆




もうすぐ完結します。


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