第23話過去逃亡戦

 途端に――クラスの喧騒が一時的に小さくなった気がした。

 ブレザーの上からでもわかる、がっしりと組み上がった長身で狭そうに教室のドアをくぐった男子生徒は、紋次郎を見るなり野太い声で言った。


「おお、船坂。今、少し時間はあるか?」


 チッ、と舌打ちを堪えるのに大変な努力が必要だった。大柄と紋次郎を交互に見つめるエレーナに構わず、紋次郎は立ち上がって男子生徒の前に立った。


「――なんですか、石田主将?」

「そう警戒してくれるな。これでも、貴重な休憩時間を邪魔してしまって悪いとは思っているんだよ」


 言葉ではそう言っているものの、さしても申し訳なさそうではない声で、強豪である柔道部の主将――三年生の石田哲朗は紋次郎を見た。


「どうだ、二年生に進級してもう二ヶ月だ。そろそろ生活には慣れたか?」

「余計な世間話はいいでしょ。もう一度ハッキリ言います。――俺は柔道はやめました。金輪際、関わることも有り得ません」


 取り付く島もない態度でそう言うと、石田主将は野太い眉毛を困らせ、「そう邪険にするなよ」と呆れ口調で言った。


「何故お前ほどの男が柔道を捨てる? 今は帰宅部だそうだな? 子供の頃からあんなに夢中になってやっていた柔道だろう。どうして突然そこまで嫌いになるというんだ」

「別に――今どき確定で坊主頭とか、時代に合わないって思ったからやめちゃダメなんですか?」


 紋次郎はできるだけスレた口調を意識して吐き捨てた。


「他にも、道着が臭すぎて嫌気がさしたとか、体育の時間に受け身の見本やらされるのが恥ずかしいからとか、所詮剣道部には敵わないからとか、それで嫌になっちゃいけないんですか?」

「では逆に訊く。――そういう言い方をしている時点で、こっちはまだ諦めきれない何かを感じるんだと思っちゃダメか?」


 チッ、と、今度は本当に舌打ちが出た。今まで見せたことのないふてぶてしい態度に、背後のエレーナが戸惑いながら立ち上がり、紋次郎の背後に来た。


「モンジロー、この人は?」

「この人はウチの学校の柔道部の偉い人だよ。俺に柔道部に入れってうるさいんだ」

「あら、そうなの! ジュードー、いいじゃない!」


 エレーナがぱっと顔を明るくさせた。


「あなたにジュードーはピッタリじゃない! 物凄い怪力だし、怪我もすぐ治る! あなたならきっといい選手になれるわ! 入りなさいよ、モンジロー!」


 無邪気にそう言ったエレーナに、石田主将が、この人はこう言ってるが? と視線で問うてきた。


 紋次郎は大きな大きなため息を吐いた。


 その、明らかに苛立ち混じりのため息に、エレーナが気圧されたように押し黙った。


「もう――石田主将もエレーナさんも、本当に勘弁してください。俺はもう柔道とか嫌なんです。心の底から嫌なんですよ。無理強いしないでください」

「だって、お前が柔道に戻るなら、二年生のうちがギリギリだろう。それ以上行ってから入っても試合には出られんのだぞ」

「試合なんか出るつもりなんかないですよ。もう何遍言わせるんですか。そもそも、なんで俺ばっかりしつこく勧誘するんです? 他にガタイのいいのは一年にだってたくさんいるでしょ? どうして二年にもなった俺を――」

「あの凰凛おうりん学園の船坂だぞ。こっちだってそう簡単に諦めきれるか」


 凰凛学園。その言葉に、紋次郎の中の何かがくすぶる煙を上げた。


「全国有数の柔道の名門、そこの中等部でかつて無双の選手と呼ばれた期待の星――それがお前だろう。お前がどれだけ柔道を嫌いになっても、そのときに積んだ名声と実績がお前を放っておく訳がないだろうが」


 紋次郎はしばらく無言で俯いた。


 俯いて――かなり苛々としながら、慎重にため息を吐いた。


「凰凛学園? 期待の星? 誰のことです? 多分、人違いだ」

「おい、とぼけるにも程があるぞ。ここら辺りで柔道を齧ったものなら誰だってお前のことを知ってるんだ」

「凰凛学園と言や県下一、この地方一の、中高一貫の名門校ですよ? 俺や俺の家に凰凛学園なんて入れる財力や学力があると思ってるんですか?」

「苦しい言い逃れだな。お前が中学以前から柔道をやっていて、それが学園関係者の目に留まって特待生になったのは想像に難くない。逆に、お前は柔道をやめたから凰凛学園にいられなくなったんじゃあないのか」

「だったらどうなんです? 俺の人生だ、俺が行く道を決める。俺がどこでなにをしようと俺の勝手だ。口を出さないでください」

「さっきはとぼけたのに凰凛学園にいた事実を認めるんだな?」


 瞬間――遂に許容量を超えた苛立ちに、全身の筋肉が脈動した。




 メリッ! という音がして、手を置いていた教室のドアに紋次郎の指先がめり込み、まるでスポンジのようにむしり取られる。


 途端に、全体に歪みが入ったドアの窓ガラスが割れ、ガラス片が床に落ちる甲高い音が教室中に響き渡る。




 石田主将が息を呑み、怯えて顔を硬直させた。


 途端に、紋次郎から発した色濃い怒りのオーラと殺気に、教室の雰囲気までもが凍りついた。今までチラチラとこちらを見ていたクラスメイトたちのガヤガヤさえ止まり、こちらを凝視する視線が紋次郎の背中に突き刺さった。




 ああ、こんな感じだったんだろうな、と、紋次郎は怒りに支配された頭の中で考えた。


 俺の曽祖父の父、船坂佐吉も――こんな恐怖の視線でロシア兵たちに見られていたんだろう。




 ふーっ、と、紋次郎は、長い長いため息を吐いた。


「……石田主将、俺はアンタを悪い人だとは思わない。むしろ情熱家で真面目な人なんだと思います。けれど、少し詮索癖がありすぎる。それにその図体に似合いで傲慢だ。人には触れられたくないもののひとつやふたつある。それをほじくり返して俺を柔道部に入れて、大会でいい成績が残せれば――アンタはそれで満足なんでしょうね」


 紋次郎の猛獣の眼光に、石田主将の顔がはっきりと青褪めた。


「けれどそれじゃ俺がよくない。もう一度言います、俺は、柔道部には、入りません。金輪際、柔道とは関わらない。アンタとも、だ」

「モンジロー、モンジロー……! 急にどうしたのよ! あなた、何か変よ……!?」


 落ち着けというように、エレーナは紋次郎の背中を擦った。

 それにも構わず、紋次郎は低い声で続けた。


「俺の過去が詮索できてさぞや満足でしょう? あぁ認めますよ。俺は逃げ出した逃亡兵です。誰からも軽蔑されて仕方ないのかもしれません。けれど、それでもよかったんです。それでもいいから俺は柔道を捨てたかった。そんな人間の過去をほじくり回して、古傷を突き回して、それが柔道家の精神でござい、ってか? くだらねぇ……そんなもんならやっぱり、捨てて正解だった――」


 紋次郎は頭一つ分は高い石田主将の顔を真正面から睨んだ。




「俺は、アンタみたいな人間にはなりたくない」




 その言葉に、石田主将が何か、愕然としたような表情を浮かべた。


 それはまさに、自分の中の何かを暴かれ、動揺する時の表情――。

 あぁこれだ。あの時の俺も、きっとこんな表情でいたんだろうな……。


 言うことは言った、という、一応の満足感はあった。けれどもそれ以上に――思わぬことでほじくられた過去の古傷が、ズキンズキンと、脳髄に突き通る痛みとなって紋次郎の身体を苛んだ。


 もう休憩時間は終わりに近づいていたけれど――この後、真面目に着席して授業を受ける気には、とてもなれそうになかった。


 紋次郎は硬直している石田主将の側をすり抜けて、とぼとぼと、校内に当て所ない逃亡を開始した。

 


◆◆◆



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