第24話見えます! 丸見えであります!!
視界に広がるのは、奇妙に腕や足がねじ曲がった死体の山。
みな一様に血まみれで、顔は二目と見られないほどに変形し、まるで腐敗したジャガイモのようだった。
血溜まりの中、死体に馬乗りになって、「自分」は笑い声を上げながら、あるものを手の中に眺めている。
白いような、赤いような、それは血と肉片に塗れた何か。
そう、それは生きた人間から毟り取った、人間の歯――。
紋次郎は恐怖に目を見開いた。
今朝見た夢の内容が、あまりにもリアルすぎた。まるで自分の魂が日露戦争当時の船坂佐吉に乗り移り、その光景を追体験させられているかのような夢の内容は、とても夢だとは思えないほどに鮮明だった。
肉を裂く感触、飛び散った脳漿の色合い、口腔内に溢れ出てくる血の味、妹のしゃくり上げる声――それらすべてが戦場にいる人間そのものの感覚で、自分に熟睡を許してくれなかった。
ハァ、とため息を吐いて、紋次郎は目を開いた。高い高い空に、雲がちぎれ飛んでいる。
あの雲たちはこの地上をどういう気持ちで眺めているのだろう。
あそこから見れば、地上で起こっている争いなど何も見えないのか。
船坂佐吉は、あの空の上から平和になった地上をどのように見つめているのか。
こんなところで当て所なく授業をサボっている自分を、どんな気持ちで見つめているのか――。
「モンジロー」
不意に――この半月で随分聞き慣れてしまった声が聞こえて、紋次郎は顔をしかめた。
そのまま立ち上がることもなく上を見ると――おそるおそる、という感じでエレーナさんが視界に入ってきた。
「フジムラタツミが、ここにいるって教えてくれたわ。あの大男が来た後のあなたはいつもここにいるって。閉鎖されてる屋上のドアノブを引っこ抜いて、そこでサボってるって」
巽の奴――ここは俺の聖域なのに、よりによって宿敵にその場所を教えたのか。ここは休戦地帯だ。
何度か頷いてしまってから――じろ、と紋次郎は眼球だけを動かした。
「見えます!」
「は?」
「丸見えであります!」
「何よそれ?」
「エレーナさんの黒いレース模様、一望のもとに収めることができます!」
紋次郎が当てつけたように言うと――しばらくして何を言われたのか理解したらしいエレーナが、ぎょっと飛び退ってスカートを押さえ、顔を赤面させた。
「バカ! バカバカバカ! Идиот!!」
「すまねぇ、ロシア語はさっぱりなんだ」
おどけたようにそう言って、紋次郎は身体を起こした。
「どうだ、失望したか? 宿敵がスカートの中見るような奴でさ」
意図していた声より、思わず低くなってしまった。その「失望したか?」には、色んな意味が込められていた。紋次郎の捨て鉢な言葉に、エレーナの表情から怒りが消えた。
「さっきはごめんね。あんな情けないところ見せちゃって。あのゴッツイ人、ホントしつこいんだよなぁ。柔道部入れって、一年の頃からずっとつきまとわれててさ」
ぼんやりそう言うと、エレーナが遠慮がちに紋次郎の横に座り、膝を抱えた。これは長期戦になるな、と紋次郎も覚悟を固めた。
「もうこっちはやめたつもりなんだけどなぁ、柔道。なんでみんなほっといてくれないのかな。こっちは学校まで変わってんだぜ? もうやめてもいいはずなんだけどなぁ」
紋次郎がぼやくと、沈黙がやってきた。
エレーナは何かを言い出すタイミングを見計らっていた。紋次郎も、その質問を待っていた。この状況でとりあえず問いただすべきことについては、ひとつしかなかった。
ややあって、エレーナが口を開いた。
「どうしてジュードーやめたの?」
エレーナが訊いてきた。紋次郎は頭を掻きながら答えた。
「泣かせちゃったんだよね、妹をさ」
「妹?」
「そう、俺の妹。俺に似ずに滅茶苦茶可愛い妹なんだよ、これが」
「そんなに可愛いってことはあなたに似てるってことでしょ」
「や、やめろ、妙なタイミングでの褒め殺しは。――その妹を護るために始めた柔道だったんだよね、元々は」
紋次郎は両腕で突っ張り、上半身を後ろにそらした。
「母さんとの約束なんだ。母さんの代わりにお前がしっかりしなくちゃダメなんだ、妹を守れるような男にならなきゃダメだぞ、って。最後に母さんと約束したんだよ」
「最後に、って?」
「俺の母さん、昔出かけたまま帰って来てないんだよね。天国ってところに行ったきりさ」
エレーナがわずかに息を呑む気配が伝わった。
そう、紋次郎の母は、紋次郎が小学生の頃、病で亡くなってしまった。
不死身と呼ばれた男の子孫でも、大切な人の身体を蝕む病には、何ひとつ報いることができなかったのだ。
「それから色々頑張ったんだぜ、妹を守るために。柔道もその一環だった。これでも高校に上がる前までは結構頑張ってたんだよ」
でもなぁ、と紋次郎はぼやいた。
「元々あんまり勝負事が好きじゃないんだよね、俺。何か条件をつけて人に勝ち負けを決めるなんて傲慢な気がするんだ。それが好きな人もいるのかもしれないけど、俺は好きじゃないな。だからどれだけ柔道が強くなっても、元からそれほど好きにはなれなかった」
それでも、今までの人生の何割かを占めていたものへの喪失は、確実に紋次郎の中にあった。その喪失感に口を塞がれる前に、紋次郎は無理やり口を開いた。
「それでも、いつの間にか天からお声がかかって、気がつけば全国屈指の名門校の生徒だよ。勉強なんか全然出来なかったのに、末は官僚だ政治家だっていう連中に混じって柔道漬け。それも地味に嫌でさ。勉強なんか全然出来ないし、お金もそんなにあるわけじゃないのに、俺だけズルしてる気がしてて。友達もそれなりにいたけど、馴染めなかったなぁ」
紋次郎はそこで言葉を区切った。区切ってから、その先を言おうとしたが――どうしても詳細な言葉にはならなかった。
その先を詳細に語ることを諦めて、紋次郎はため息を吐いた。
「んで、ある日とある事件があって、俺は妹を泣かせちゃった。妹を護るために始めた柔道なのに、それが妹を泣かせちゃったんだ。もうその時点で俺の柔道は死んだ。もう二度と蘇らない」
断固とした口調で言うと、エレーナが少し慌てたように紋次郎を見た。
「悪いんだけど――なんだか凄く、軽い決断なんじゃない?」
「軽いかねぇ。俺には全く軽いとは思えない。妹と柔道、どっち取るかって言われたら、俺は妹だな。妹は俺の宝だ。そのためなら柔道なんか全然捨てたって構わないよ」
それは――偽りのない本心だった。元々成り行きのような経緯でやっていた柔道と、血肉を分け合った妹なら、紋次郎の中の天秤は揺れることもなく柔道を持ち上げる。
「これは俺なりのケジメだ。妹と柔道がぶつかったなら、潔く捨てる。柔道だけじゃない、この世の何もかも、妹を泣かせるものを俺は許せない。俺はいっぺんでも柔道が許せなくなった。だからやめた。だから、この話はこれで終わりなんだ」
紋次郎がキッパリと言い切ると、エレーナが視線を前に戻した。
「私でも」
「ん?」
「私でも、あなたの妹さんを泣かせたら嫌いになる?」
その言葉に、紋次郎は少し考えて、言った。
「エレーナさんをぶっとばす前に少し事情は訊くよ」
「そう」
エレーナが感情を滲ませない声でそう言った。
再び、沈黙が落ちた。
随分と長い沈黙だった。
「そう、あなたのお母さん、亡くなったの――私と同じね」
紋次郎は無言で、横で膝を抱えているエレーナを見た。
日本人離れした堀の深い顔立ちと、透き通るかのような肌の色はやはりロシアの血の影響なのはわかっていたけれど、やはりその面影のどこかには、自分と同じ東洋人らしい特徴が見受けられる。
思えば、紋次郎はこの謎の少女に一方的に生態を調査されているらしいが、反対に、紋次郎はエレーナのことを何ひとつ知らないのだ。
何か声をかけてみようかと思ったが、エレーナは口を開きそうにない。
まるで二日酔いのように、ぼんやりとした表情で前の虚空を見つめている。
なんだか重くなってしまった空気を誤魔化すべく、紋次郎は努めて明るい声を発した。
「そういや今更だけど、エレーナさんって日本語上手だよな」
紋次郎の声に、エレーナがこちらを向いた。
「上手っていうか、ほぼネイティブレベルだよね、エレーナさんの日本語。やっぱりアレか? 日本は今もロシアにとっては潜在的国だからって子供の頃から勉強してたのか? それとも通信教育かなにかで――」
「――喋れて当たり前よ。私の父、ヤボンスキだもの」
その言葉に、は、と紋次郎は息を呑んだ。
エレーナは抱えた膝頭に顎を埋めてぼそぼそと答えた。
「母はロシア人。母もね、私の祖父から不死身の船坂の英雄譚を聞いて育ったらしいから、この国に憧れがあったんでしょう。大学生の時、母はこの国に留学して、卒業と同時に一人のヤボンスキと結婚して私を産んだ。日本語はその男――私の父である男から教わった。難しい漢字さえなければ、今も日本語の読み書きに支障はないの」
ふん、と、エレーナはそこで小さく鼻を鳴らした。
「母やあの男も、きっと私の将来のことを考えてくれてたんでしょう。ヤポーニャとロシア、私はそのどちらの血も受け継いでいる。架け橋、とでも思ってたんじゃない? 大げさな話だけど。でなきゃ母国語じゃない言葉なんてわざわざ教えないもの」
エレーナはそこで、ハァ、となにかに失望したかのようなため息を吐いた。
「でも所詮、憧れと現実は違うってことなんでしょ。そのうち両親が喧嘩することが増えて、私が10歳になる前、あの男は私と母を捨てて国を出ていった。母は失意の中、急な病気で死んじゃった」
「お父さんとは――その後どうなったの?」
「知らない。今もこの国のどっかで生きてるんじゃない?」
吐き捨てるように言ったエレーナの横顔を、紋次郎はしげしげと観察した。
エレーナが――何故、「不死身の船坂」に憧れと恨みの両方を抱いているのか、わかってしまった気がした。
エレーナにとって「不死身の船坂」は、自分という存在を生み出すきっかけを作った存在でもあり――父を奪った存在でもあるのだ。
そのことを理解したのと同時に、さっきの軽口のことが重くのしかかってきて、紋次郎は項垂れた。
「……ごめん」
「いいわよ、内心は気づいてたんでしょ? 私が完全なロシア人じゃないって……」
「それだけじゃなく、ごめん」
紋次郎のその言葉に、エレーナも無言になった。
しばらく、世界から音という音が消えてしまったかのような、長い長い沈黙があった。
随分そうしていた後――ぽつり、とエレーナが口を開いた。
「モンジロー」
「何?」
「おいで。膝枕してあげる」
「ひゃい?」
何だか物凄い単語を聞いたような気がして、紋次郎の声が裏返った。エレーナを見つめて、紋次郎はしどろもどろに言った。
「ごめんごめんごめんごめん、急に俺の耳が腐っちゃったみたいなんだ。ごめん、膝枕って聞こえたんだけど――違うよね?」
「イヤ?」
エレーナが膝を崩し、誘うかのように膝をポンポンと叩いたのを見て――流石に紋次郎も次の言葉に窮した。
◆◆◆
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