第25話膝枕決戦

 これは――聞き間違いではなかったようだ。紋次郎はしばらく身体を触ったり、あちこちを余所見したりしてから、乾いた声で笑った。


「あ、あはは……ごめん、なんか、そんなに疲れてるように見える? これでも全然疲れてないから。エレーナさんに膝枕してもらうほど癒やしが必要なバイタルでは――」

「疲れてるってことにしとくの!」


 エレーナが必死な顔を寄せてきて、うわっ、と紋次郎は尻餅をついた。呆気に取られている紋次郎を見つめた後、エレーナは逃すまいとするかのように紋次郎のワイシャツを掴んだ。


「いい、モンジロー? 百年以上も再会を待ち望んだ宿敵がそんな表情してたら、こっちだって遠慮なくやっつけられないじゃない。あなたは私が必ずぶっとばしてあげる。地面に額こすりつけて、参りました、これ以上は勘弁してくださいって、必ず言わせてみせる。それで無様に跪かせて、私の爪先を舐めさせてあげるの。どう? 想像しただけでさぞかし屈辱でしょう?」

「いや、エレーナさんの爪先だったらそんなことされなくてもオールナイトで舐めるけど……」

「何言ってんのよバカ、変態」


 そうは言いつつも、エレーナの目は、今までのどのシチュエーションで見た時より真剣だった。思わず、つまらない軽口を叩いたことを申し訳なく思わせるほどに。


「だからそれまでに万全なコンディションになってもらわないことにはこっちのプライドが保てない。宿敵が弱りきったところにつけこんでぶっ倒しました、なんて言ったらポポロフ家の名に傷がつくじゃない。ポポロフ伯爵家は騎士道精神を重んじる家だもん。たとえ敵であっても傷ついた人間には手を差し伸べるのが騎士道でしょう?」


 だからって、膝枕――?


 紋次郎はちらと、下を盗み見た。


 スカートから伸びる、まるで輝くかのように白い肌に、血管が蒼く浮き出る太腿。


 ごくっ、と、紋次郎の喉が、緊張とは違う理由で動いた。


 ここに頭なんぞを乗せたら、さぞや心地よいに違いなかった。


 けど――それでもまだ迷っている紋次郎に、エレーナが少しだけ表情を厳しくさせた。


「……モンジロー、あなたに何があってジュードーを捨てたのかは、詳しくは聞かない。それに、あなたは確かに特異体質で、傷の治りが人より早いかもしれない。でも、今のあなたは――ジュードーを捨てると決めた、その時の心の傷まで癒えているようには、私にはとても見えない」


 心の傷。

 その言葉に、はっと虚を衝かれた紋次郎は目を見開いた。


「さっきあなたは、古傷をつつかれた、と言っていた。それにあなたはさっき、ジュードーを捨てた事について後悔はないと言った。それはおそらく、半分は本当なんだと思う。つまり、ジュードーを捨てたこと以上に、ジュードーを捨てる時、何かとても辛いことがあった――違う?」


 ――この人、どうしてなかなか、鋭い人らしい。紋次郎が無言になると、それを肯定と受け取ったのか、エレーナがなおも言った。


「今のあなたはどう考えても絶対安静よ。あなたにはわからないかもしれないけれど、人は怪我をしたら安静にするものなの。すぐに動き回るもんじゃないわ。ここは一般人である私を信じて、安静にして」


 それでも――。まだ煮えきらない態度の紋次郎を見て、今度はエレーナが挑みかかるように薄笑みを浮かべ、小馬鹿にした口調で口を開いた。


「あなたには少し休息が必要だと、他ならぬ宿敵である私が判断したのよ? 宿敵の言う事なのにその判断が信頼できないの? 敵ながらその戦いぶりは尊敬できる天晴な男だと思っていたのはウチの家だけだった? 大いに心外ね」


 上等だ。紋次郎は覚悟を決めた。


「そこまで言うなら――是非やってもらおうじゃないか、膝枕」

「おーおー、やっとその気になったのね。ヤポーニャが平和すぎてすっかりフヤけちゃったのかと思ってた」

「フヤけるかよ、これでも英雄の子孫だぞ。膝枕のひとつやふたつ、耐えてみせるわ」

「じゃあやってみなさい。今ここでメタメタに甘やかしてやるから」


 紋次郎は立ち上がり、エレーナの側に座った。

 座って――改めてその艶めかしい太腿を視界に入れた。


 物凄い勢いで口内が乾いていくのに、じっと耐えた。ここで生唾を飲み込んでしまったら戦局は一気に不利になる。旅順艦隊とバルチック艦隊の挟み撃ちに遭って連合艦隊は全滅だ。絶対に動揺できなかった。


「じゃあ――行くぞ、今更やめろって言っても聞かんぞ」

「いつでも来なさいよ、あなたこそ途中で音を上げないでよね」


 もはやお互いにわけがわからないだろう台詞を掛け合い、紋次郎はぱったりと横になり、恐る恐るエレーナの脚に頭を乗せた。


 途端に、甘いとしか言えないエレーナの匂いが鼻腔いっぱいに広がり、思わず目の前に火花が散った。耐えろ耐えろ耐えろ、と念仏のように念じて、紋次郎は頬を徐々に密着させてゆく。


 頭のすべての重さをエレーナの脚に預けると――なるほど、これは心地よかった。まさしく絶品の癒やしと言えた。ただ人間の膝に頭を乗せるだけでこんなにも心地が良いものだとは――紋次郎は生まれて初めて知った。


「――どう、硬くない?」

「おっ、おぅ――」

「そう、よかった」


 顔が見えないエレーナの声が、幾分か強張って聞こえた。この声なら今頃エレーナの顔は真っ赤っ赤なのだろう。こちらとしても是非ひやかしてやりたかったが、エレーナの方を向いて膝枕される度胸は幾らなんでもなかった。紋次郎はバキバキに身体を固くしたまま、じっとこの癒やし――否、拷問に耐えていた。


 と――そのとき。迷ったように宙に浮いたエレーナの右手が、そっと紋次郎の髪を撫で、紋次郎の血圧が急上昇した。びくっ、と反応してしまった紋次郎に、エレーナが驚いて手を引いた。


「あ、ごめん――言ってから触った方がよかった?」

「あ、いや――だ、大丈夫」

「じゃ、じゃあ、撫でるわね」


 その言葉とともに、エレーナが紋次郎の頭を撫でた。途端に、ぞわーっと全身に鳥肌が立つ。


「ほ、ほら、どう?」

「あぁ、ヤバい――正直これはヤバい――! ヤバいとしか言えない……!!」

「何を言ってるのよ、宿敵に膝枕されて喜んでるワケ? 紋次郎はヘンタイね?」


 や、やめろそういう台詞! 紋次郎は食いしばった歯の隙間からうめき声を上げた。その間にもエレーナの掌は優しく紋次郎の頭の上を往復する。


「紋次郎、随分硬くなってるじゃない。どうしたの? 宿敵に膝枕されて緊張してるのかしら?」

「ギギギ……! そ、そんなことあるか……! なんのそのこれしきのこと……!」

「あなたって意外に髪サラサラなのね。もっと針金みたいに硬いのかと思ってた」


 ここで一体何に感心してるの!? 紋次郎の張り詰めたメンタルにブスブスと針を突き刺すかのようなエレーナの指摘に、紋次郎の意識が頼りない蝋燭の炎のように揺らいだ。


「それに、耳の形も意外に綺麗――ちょっと触らせて」

「あ、や、やめ――!」


 紋次郎が喘ぐ前に、エレーナの手が紋次郎の耳たぶを優しく触った。瞬間、今まで高まりっぱなしだった血圧が急激に下降する感覚がして――眼の前が暗くなった。


 ただの膝枕で、このやられよう――おそらく、真っ赤になっているのだろう耳を見て、クス、とエレーナが笑った。


「あら、柔らかい……フニャフニャじゃないの。不死身の怪物の耳なのに」

「アッ――! え、エレーナさん、やめ……!」

「あらあら、情けない声上げちゃって……耳をマッサージするとリラックス効果があるって聞いたわよ? ほらほら、こんな風に……」

「うごごごごご……!」


 グニグニと、エレーナが嫌らしい手付きで紋次郎の耳を弄った。それと同時に、全身の血液がボコボコと泡を立てて沸騰するかのようだった。


「うふふ、これはいい気持ちねぇ。『不死身の船坂』を好き勝手に凌辱してるみたいで格別の気分だわ。ここで先祖の恨みつらみとか耳元で囁いてやったら天国にいる高祖父は泣いて喜ぶでしょうね――」


 その一言に、紋次郎の心臓が凍った。


 この状況で、耳元に――? エレーナが何を考えているのかわかってしまって、思わず紋次郎は目だけでエレーナを凝視した。


「や、やめろ……! それだけは、それだけは……!」

「あら、命乞い? らしくないわねぇ。『不死身の船坂』ならやってみろって言ったんじゃない?」

「お、俺は先祖とは違う! だっ、ダメだやめろ! こっ、この状況で耳元に、とか――!」


 エレーナは止まらなかった。瞬間、今まで意識の外にしていた太陽の眩しさが陰り――ぐにっ、と肩あたりに物凄く柔らかい感触を感じて、紋次郎の顔全体にエレーナの髪が落ちてくるこそばゆい感覚がした。


 一瞬、全身をエレーナに包まれた、と紋次郎は感じた


 そのまま、エレーナが耳元に口を寄せて、甘い吐息とともに囁いた。




「モンジロー……可愛い」




 アアッ、これはダメだ――。


 爆煙と土煙、そして数多の負傷兵のうめき声が渦巻く紋次郎の頭の中の二〇三高地の頂上に――日の丸ではない、真っ白な白旗がはためいた。二〇三高地は帝政ロシア軍の膝枕という非人道的兵器の使用によって、再度奪還され陥落した。連合艦隊は華麗な東郷ターンを決める前にバルチック艦隊の猛攻によって壊滅した。日本軍は大陸から駆逐され、そのまま本土まで侵略されてロシア領になりましたとさ、どっとはれ。




「う――」




 紋次郎がうめき声を上げるのを、エレーナは可笑しそうに見て身体を起こした。そのまま、物凄く上機嫌な感じでふと視線を落としたエレーナが――紋次郎の下半身のある部分を見て、ぎょっと目を見開いた。


「うぇ――!?」


 途端に、紋次郎は楽園から追放された。バッと身体を引いて後ずさったエレーナの太腿から頭がずり落ち、屋上のコンクリートに落下する。ゴツッ! という音と共に火花が散り、それとともに頭の中の二〇三高地は霧散した。


「んな、ななななな――!? モンジロー! なっ、なによ、それ!?」


 それ、と指さされて言われても――紋次郎はしたたかにぶつけた側頭部の痛みを訴えるより先に、慌てて反論した。


「しっ、仕方ないだろうが! エレーナさんが調子に乗りすぎなんだよ! 男だったらだれでもこうなるわ! 健全な男子高校生として当然の生理現象だ、文句あるか!」

「ば――バカバカバカ! ヘンタイ! ヘンタイっ!! ただの膝枕でどこ元気にしてんのよ! いっ、今まで私をそんな目で見てたわけ!? サイテーよサイテー!! フケツ男!!」

「うぐ……! 元はと言えばエレーナさんが無理言って俺に膝枕しろって言ったんじゃないか! 非人道的な殺戮兵器の使用だ! 国際法違反だ! それに俺は癒やされるどころか側頭部を強打してんだぞ! 負傷兵には優しくしろ!」

「負傷兵どころか元気になってるじゃない! しかも一部だけ! あーもー、こんなバカなことやるんじゃなかったわ! 滅茶苦茶穢された気分よ、今!」

「人聞きの悪いこと言うのはやめろ! あーあー俺の方こそ穢された気分だっつうの! もう二度と膝枕なんてされてやらないからな! わかったか!」

「え……もう二度とさせてくれないの?」

「え――」


 そこで言い合いが治まってしまった瞬間――カチリ、と渋い音が発して、エレーナと紋次郎は同時にそちらを見た。


 そこには――堀山先生が壁に背を預けてタバコを指に挟み、可笑しそうにくっくっと笑っている姿があった。


「お前ら、授業サボって立入禁止の屋上でイチャイチャとは――なかなか味なことをやってくれるじゃないか。青春だなぁ。私にもそんな時代があったのかなぁ……」


 少し羨ましそうな声とともに、堀山先生――否、堀山茜は煙を吐き出した。


「全く、紋次郎が荒れているというから心配して見に来てやったら、そういう意味で荒れているとはなぁ。さ、私がこれを吸い終わったら、お前らも授業に戻るぞ」


 見られていた。その一言が紋次郎とエレーナの頭に浮かび、猛烈に気恥ずかしくなってきた。思わず縮こまってしまった両者を見て、堀山茜の笑い声は一層大きくなっていった。




◆◆◆



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