第26話推しアイドル布教戦
「も、もう機嫌直してくれよエレーナさん。俺を汚物みたいに見るなよ……」
「ふん――元からそんなに怒っちゃないわよ。ただ少し、そう……ビックリしただけよ」
適切な距離を保ちながら帰宅するエレーナはそんなふうに言った。よかった、と紋次郎はホッとする気分だった。あんなことがあって以後普通に接してくれるはずないと思っていたが、今のエレーナからは戸惑いを感じこそすれ、怒っている雰囲気はなかった。
「それに、あなたの意外な弱点も知れて成果もあったしね。耳が弱い……これはかなりの情報だわ。ソ連時代ならこれ握って帰ってきた人はレーニン勲章モノよ」
「や、やめろその言い方! やっぱり俺のことをどっかに報告するつもりか! ソ連って言われるとより洒落にならない感じがするからやめろ!」
「あら、これでもポポロフ家は赤軍の貴族狩りに遭ってからもしたたかだったのよ? ソ連時代は結構な高級官僚も輩出してるし」
「じ、冗談抜きで何か本当にKGBとかに付け狙われそうな気がする――! も、もう本当に勘弁してよ。本国に流さないでよ? 俺の弱点」
「幾らなんでもこんなわけわかんないこと誰かに報告したりしないわよ。私だけが独占するの。いざとなったときにあなたをコテンパンにするためにね」
「も、もう今日の昼に一回コテンパンにされてるけどな……」
「あなたの最後のフケツな行為によって最後の最後に動揺しちゃったじゃない。まだ勝敗は決しちゃいないわ」
そう言ってエレーナはぐっと握りこぶしを握り締めた。どうすれば勝敗が決することになるの? と、いっぺん紋次郎は真剣に聞いてみたかったが、エレーナはあくまでまだまだやる気らしかった。
どうやらこの第二次日露戦争、かなりの泥仕合になることが既に確定しているらしい。日露両国はまるで湯水の如くに兵器や人員を投入し、両者一歩も譲らずの構えで戦線を拡大してゆくのだ。
「それにしても、モンジロー。あなたのその着てるワイシャツ、この間のやつよね?」
エレーナに言われて、ん? と紋次郎は下を見た。あの後、ベンジンと酸素系漂白剤で頑張って染み抜きしてみた血染めのワイシャツには、それでもまだ少し錆のような血の染みが消え残っていた。
「ん? あぁ、頑張って洗ってみたんだけど、全部は落ちなかったな」
「……それ、幾らなんでも変えましょうよ。物騒じゃない。新しいの買わないの?」
「コラコラ、一人暮らしの貧乏学生になんてこと言うんだ。新しいワイシャツを買うぐらいなら少しでも勉学のための参考書をだな――」
「その参考書が全く役に立ってない成績なのは調査以前に私も知ってる」
チッ、と紋次郎は舌打ちをしたくなった。確かに、紋次郎の成績は「ちょっと酷い」と「割と酷い」の中間の上ぐらいをフワフワ漂っているのが常で、お世辞にもいいものとは言えない。さらにこのエレーナ・ポポロフとかいう自称貴族子女は、容姿以上にその頭脳も完璧らしく、物凄く頭がいいらしいということはまだ転校から半月しか経っていない現状でもわかっていた。
「全く、そういうことなら早く言いなさいよ」
「うぇ?」
「今度の休日、どうせどこに行く予定もないのでしょう? あなたのワイシャツが汚れてしまったのは私を助けるためなんだし、私が新しいのを見繕ってプレゼントしてあげる。ついてきて」
その言葉に――紋次郎はしばらく固まり、言いたいことを慎重に頭の中に並べた。
「あ、いや――いいの?」
「もう……そんな物乞いみたいな表情しないでちょうだい。これでも実家からはそれなりに生活費も貰ってるから。ワイシャツの一枚や二枚、買ったところで私が困ることはないわ」
「いや、それもなんだけど……」
「あによ?」
「それ、その……要するに休日デートじゃない? いいの? 宿敵とデートなんかして?」
この素直じゃない人に色々と迂遠な表現は伝わらないだろうと思って、あえてストレートな物言いをしてみると、案の定、エレーナの頬が少しずつ赤くなっていった。
「そ、そういう捉え方も……できる、のかしら……?」
「いいの? 宿敵のプライド傷つかない? プレゼントしてもらえるなら俺は全然構わないけど……」
「な、何よその感じ? 言っとくけど、これはちゃんとした調査なんだからね? デートなんて浮ついたもんじゃないから」
いやデートじゃん、とツッコミたいのを我慢して、紋次郎はとりあえずエレーナの主張を聞くことにした。
「あなたが休日どこにいてどんなことをしてるのかわかんないと、何だか個人的に気持ちが悪いもの。あなたの休日の行動範囲を把握しておくことも立派な調査よ」
「あーはいはい、つまりこれは、後でエレーナさんが休日中に俺のもとに暗殺者を送り込んで抹殺するために必要な調査だと、そういうことか?」
「そう、わかってるじゃない。わかればいいのよ」
「いや、こんなとんでもない内容の激白、わかってあげるだけすげぇ寛大だよ?」
紋次郎が苦笑すると、エレーナが少し視線を逸し、おずおずと身体をよじり、少しだけ不安そうな表情を浮かべて、ボソボソと呟いた。
「ま、まぁ、こんなデカくて目立って、おまけに素直じゃない女に休日まで付き纏われるのがどうしても嫌だっていうなら、いいけど……」
もう、この人はなんでこんなワケわからないタイミングでデレるの……?
紋次郎はスクールバッグを持っていない方の左手で顔を覆い、心臓の鼓動が治まるのを待った。
「いい」
「んぇ?」
「全ッ然いい。むしろ嬉しい。それどころか見れるなら休日でも見たいわ、エレーナさんのその顔」
「な、何よその言い方。まるで四六時中付き纏ってほしいって言ってるみたいじゃない」
「もう……ご先祖様ありがとう、ちゃんと戦ってくれて。あなたのお陰でここに来てくれた俺の宿敵がたまにだけど可愛すぎる……」
「か、可愛いって……! もう、何よその反応は! それじゃ宿敵じゃなくて、その、本当にПодругаにいう言葉みたいじゃない――!!」
「え、パドルーガ? それって友達って意味じゃなかったっけ?」
「あーもう、細かいことツッコまないで! とっ、とにかく! 次の日曜日はおでかけね!? 重ね重ね言っとくけどデートじゃなくて調査だから! 気合い入れて来てよね!」
あぁ、と応じて、紋次郎とエレーナは『メゾン三笠』の階段を昇った。そのまま、同時にドアノブに鍵を突っ込んでから――あ、と紋次郎は声を上げた。
「エレーナさん」
「何?」
「ちょっとここで待っててくれるか。ワイシャツ買ってもらうんだから、お礼もしとかないとと思って」
「お礼?」
エレーナが何かを言う前に、紋次郎は部屋の中に入り、ゴソゴソとDVDラックを漁った。これと、これと、これもか……と適当なものを見繕って、紋次郎は玄関に向かった。
「お待たせ。お礼になるかわかんないけど、これ」
紋次郎が満面の笑みと共に差し出してきたものを見て――エレーナの目が丸くなった。
「なにこれ?」
「決まってる。『La☆La☆Age』のライブDVD。いずれも初回限定盤。貸すから観てよ」
紋次郎が自慢気にそう言うと、エレーナが眉間に皺を寄せて紋次郎を見た。
「これがお礼、ねぇ……あなた、お礼とか言って体よく布教する気なんじゃないの?」
「おいおい、そんな嫌そうな顔すんなよ。まずは乗っかってみ、って。メシ食いながらでもいいし風呂入りながらでもいいから、まず観てみない? これでも日本のトップアイドルなんだぜ? 絶対損することはないって」
「まぁ――あなたがそこまで言うなら。それに、ヤポーニャの分化を勉強するっていうのも重要かもしれないわね。じゃあ有り難く借り受けるわ。悪いけど、返すまでに少し時間をもらえる?」
「いいとも、同じの三枚ずつ持ってるから。気に入ったなら貰ってくれてもいいぞ」
「……なんで三枚ずつ持ってるの?」
「そりゃ、Koto☆のために」
その即答に、ハァ、とエレーナが呆れたようにため息を吐いた。
「本当に好きなのね、その、『La☆La☆Age』とかいうグループが」
「そりゃそうとも。人生の羅針盤そのものだよ。俺が特に見てほしいのはKoto☆なんだけど――エレーナさんの推しが誰になっても俺は文句言わない。まず好きになってもらうところからだ」
「はいはい、私にはそのオシってのがわからないけど――とりあえず見てみるわ」
「おっ、言ったな? 絶対だよ?」
紋次郎が念押しすると、呆れたようにエレーナが少し笑った。
◆◆◆
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