第36話トラック特攻戦

 一瞬、頭が真っ白になった。


 トラックのバンパーは、既に数十メートルも離れていない位置にあった。


 今からブレーキを踏んだところで間に合うまい。


 それを理解した瞬間――エレーナは悔しさに震えた。



 

 何よ、これ。


 せっかくもう少しで紋次郎と手を繋げたのに。


 もう少しで自分が望む形の関係になれたのに。


 ようやく――百二十年間の因縁が消える時が来たというのに。




 神様はそれすら許してくれないのか。


 お前たちは永遠にいがみ合い、憎しみ合い、殺し合えと。


 手を取り合うぐらいなら消えてしまえと――そんな残酷なことを言うのか。




 エレーナの目に、あっという間に涙が溢れてきて、トラックの像が滲んだ。


 悔しい、悔しい。


 どうして今でなければならなかったのだ。


 どうして――手を繋ぎ合ってからではダメだったのか。


 そうすれば、そうすれば、自分だって――。




 そこまで思った瞬間だった。


 急に――視界に割り込んできた何者かが、大きく身体を開き、足を踏ん張り、迫り来るトラックに向かって立ちはだかった。


 それはまるで、エレーナを庇い護らんとするかのように――両腕を広げたそれと、鉄の塊であるトラックが、エレーナの見ている前で、真正面から激突した。




 ドゴォン! という、冗談のような轟音が臓腑を揺さぶった。


 トラックのフロントに両腕を突っ張り、額を叩きつけ、阿修羅の形相で歯を食いしばった紋次郎が――猛烈な雄叫びを上げた。


 アスファルトにめり込まんばかりに踏ん張った両足の靴底から煙を上げ、何メートルも後退しながらも、紋次郎は一瞬も格闘を諦めようとしない。


 喉が張り裂ける程の咆哮を上げ、紋次郎がもう一度フロントに額を叩きつけると――トラックは急速に速度を落とし――ギシッ、という音が発した。


 にわかには信じられない光景だった。


 唖然呆然とその光景に見入っている観衆の目の前で――慣性によって浮き上がったトラックの後輪がサスペンションを大きく軋ませながら沈み込むと――トラックが、完全に停車した。


 エレーナは、魂を抜かれてしまったかのように、紋次郎の背中を見つめた。




 この男、この男――まさか、素手で走行中のトラックを止めてしまうとは。


 常人の膂力を圧倒する怪力だとは知っていたが――それにしても、目の前の光景は、あまりにも非常識的に過ぎる光景であった。




 魂を抜かれてしまったかのように放心しているエレーナの目の前で――ゆらりと紋次郎の身体が傾ぎ、がっくりと地面に膝をついた。


 それを見ていた身体に不意に力が戻って、エレーナは半狂乱の声で叫んだ。


「モンジロー、モンジローっ!!」


 二、三度、転びながら立ち上がり、紋次郎に駆け寄ると、紋次郎は全身で息をついていた。脂汗が滲んだ額に、不意に赤いものが混じり、頬骨を伝って顎先から滴り落ちるのを見て――エレーナの頭から血の気が引いた。


「モンジロー! だっ、大丈夫!?」


 エレーナが紋次郎の肩を抱こうとするより先に――紋次郎がゴロリと仰向けに地面に寝転び、額を押さえて転がり出した。




「……痛ぇぇぇぇぇぇぇええええええええええ!!!」




 この状況の後で発するにはあまりにも的確とも、あまりにも間抜けとも言える声で、紋次郎は地面を転がりまくった。


「ぐおおおおおおお痛ってぇぇぇぇぇえ!! 流石にコレはキツい! 久しぶりにやったらこんな痛かったんだっけ!? ちっくしょおおおおおおもう二度とやらねぇ!! ぐわあああああああああ!!」


 まるで小学生がサッカー選手の真似をするように、紋次郎は大袈裟なほど痛がって転がった。その様と発言を目の当たりにして、エレーナは再び絶句した。っていうか、「久しぶりにやったら」って……。


「モンジロー、だっ、大丈夫なの!? こんなん私なんかが見てもわかんないわよ!! 自己申告でお願い!! 大丈夫なの!? どうなの!?」

「ぐ、ぬぬ……! だ、大丈夫……だと思う。前回ネコ助けようとしてダンプカー止めた時も大丈夫だったから、多分……」

「前回はダンプカー止めたって何よ!? あなた毎回こんなことしてるの!? いつか身体ごと消し飛んで死ぬわよ! もう二度とやらないで! いいわね!?」

「言われなくてももう二度とやるかこんな痛いこと! ……あぁぁ、痛かった……流石にこれはキツかった……」


 紋次郎が地面に座り込み、血だらけの額を押さえてそんな事を言った。だらだら……とまだ止まらない出血を見て、トラックの運転手が真っ青な顔で駆け寄ってきた。


「きっ、君! だっ、大丈夫……なのか!?」

「ん? えぇ、大丈夫ですよ。ちょっと額が切れたぐらいです。額は結構派手に血が流れますんで……」


 あっけらかんとそう言った紋次郎に、トラックの運転手は怪物を見るような視線を一瞬注いだ後、震える手でスマホを取り出して操作を始めた。今度はそれを見た紋次郎が慌てた。


「あ、ちょ……! ど、どこに通報するつもりですか!? 警察ですか、救急ですか!?」

「どっちもに決まってるだろ! 君は怪我しているじゃないか!! 今救急車を呼ぶから安静にしててくれ!」

「あ、いや! これはすぐ塞がるんで大丈夫です! び、病院には連絡しないで……!」

「何を言ってるんだ!? 君はトラックと正面衝突してるんだぞ! 何事がないとしても病院で精密検査してもらう必要があるだろうが!!」

「せ、精密検査……!?」


 それを聞いた紋次郎の顔が、トラックの運転手と同じぐらい真っ青になった。


「い……いや、結構ですッ! 俺、どこも怪我とかしてないんで! あの、その、病院はいいですから!」

「モンジロー、あなたが病院嫌いなのはわかってる。でも、今回ばかりは病院に行って。お願いよ」


 エレーナは紋次郎の腕を掴んで懇願した。


「モンジロー、そんなに病院が怖いなら私もついていく。だからお願い、適切な治療を受けて。こんな怪我、一人で治すなんて馬鹿なことはやめて」

「え、エレーナさんこそ馬鹿なこと言わないでくれ! 病院って点滴とか、レントゲンとかされるんだろ!? お、俺は嫌だぞ! 病院なんか絶対行くか!」

「モンジロー、お願いだから!」


 エレーナは紋次郎の服にすがりつき、なおも懇願した。


「この怪我は私を助けて負った怪我でしょう? 私にだって責任がある。それにあなたがどんなに特異体質でも、後で悪くなるかもしれない。あなただって超人じゃないのよ! 私、私、凄く心配だから……!」

「いっ、嫌だったら! ほら、この通りピンピンしてるから!」


 紋次郎はあくまで病院には行かないと言い張った。自分の身体を触り、血相を変えてエレーナに捲し立てる。


「こんなもん唾つけときゃ自然に治るって! 俺は昔からそれで通してきて今まで問題ないんだよ! 今回もちゃんと大丈夫だから!」

「モンジロー……!」

「あぁもう、大丈夫だって、しつこいな! 俺は絶対病院とか行くの嫌だぞ! 怖いんだよ! 注射とかされたら確実に気絶するって言っただろ! エレーナさんは何事もなく無事だったんだからそれでいいじゃねぇか! 俺のことなんかほっといても大丈夫なんだって!」


 その瞬間、エレーナの顔色が変わった。


 エレーナがぐっと唇を噛み、紋次郎の顔を正面から睨みつける。え――? と紋次郎が押し黙ってしまうと、エレーナが俯いた。


 ぷるぷる……と小刻みに震えたまま、何も言おうとしないエレーナにまごつき、紋次郎が「え、エレーナさん……?」と呼びかけた、その途端。


 エレーナの腕が、鋭く速く動いた。




 バチン! という、物凄い音が発して、紋次郎の頬に鋭い痛みが走った。




 頬を張られた、と気がついたのは、随分経ってからのことだった。


 痛み以上に、突如こんなことをされた驚きと困惑がないまぜになって、紋次郎はゆっくりと、目の前のエレーナに顔を戻した。


 エレーナは……歯を食いしばり、何かとても悔しそうな表情で紋次郎を睨みつけていた。ふーっ、ふーっ……! と、食いしばった歯の隙間からうるさく呼吸をしているエレーナの目尻から――ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。


「エレーナさん……?」


 もう一度、その行動の真意を問うように名前を呼んでも、エレーナはもう何も答えようとはしなかった。トラックの運転手や小学生、事態を見守っている観客の困惑の視線、その一切を振り払うかのように豪奢な銀髪を振り乱して立ち上がると、のしのしと歩いて行ってしまう。


 思わず、叩かれた頬に手を当てて、去ってゆくエレーナの背中を見つめた。


 何だか――トラックに激突したその痛みよりも、何倍も痛く感じた。ズキンズキン、と、脳髄にまで突き立つような疼きが脈動して、思わず紋次郎は顔をしかめた。


 なんで殴られたんだろう、なんでエレーナさんは泣いてたんだろう……間抜けにも、次に考えたのはそんなことだった。何か途轍もなくエレーナを怒らせてしまったことには違いがないが、何がそんなに気に触ったのだろう。


 呆然と路上に項垂れていると――「あれ、お兄じゃん」という声が聞こえて、紋次郎は顔を上げた。

 そこに立っていたのは、買い物袋を鈴なりに手にぶら下げた寿だった。


「おっ、おお……寿か」

「なんで血だらけ? しかもトラック停まってるし。跳ねられた?」

「いや、エレーナさんが跳ねられそうになったのを、俺が阻止した」

「んで血だらけになった? それより助けたエレーナさんは?」

「俺のこと一発ひっぱたいて帰っちまった。……くそっ、ワケわかんねぇ……! なんで俺殴られたんだ……!?」


 したたかに叩かれた顔をしかめると、寿が少し考えた後、何かを思いついた口調で言った。


「まさかお兄、エレーナさんがいうのも聞かずに、病院なんか行かないって言い張ったんじゃない? お兄って病院行くの大嫌いだし」

「そりゃ当然だろ! 今まで何事もなかったから今回も何事もないんだって言ったさ! それなのにエレーナさんしつこいんだ! いつか死んじゃうかも、ってさ、だからまさか俺に限ってそんなわけないのに……!」


 そこまで言うと、「ふーん」と意味深に頷いた寿が、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。


「お兄、立って」

「え?」

「いいから立つ!」

「あ、あぁ……これでいいのか?」

「よし」


 ふーっと大きく息を吸い、寿の左手が紋次郎の肩に回った、その瞬間――。




 何の予告もなく跳ね上げられた寿の右膝が、紋次郎の男の証明を容赦なく蹴り潰した。




 それはまさに唐突に襲ってきた地獄――あまりの衝撃に悲鳴すら出せず、すとん、と、紋次郎はその場に膝をついた。


 ヒィィ! と事態を見守っていたギャラリーが己の股間を押さえて怯える声を上げるのが、死にかけた聴覚に響く。


 そのまま重力に抗いきれず、ばったりと倒れ込んで頬を路上に押し付けた紋次郎は、かろうじて動く目だけで寿を見上げた。


「お兄には悪いけど、人がいる手前、病院には強制連行します。気絶してた方が怖くなくていいでしょ?」


 だからって、この一撃――いくら自分と言えど、即死モノの一撃を?


 紋次郎が視線だけで抗議すると、寿が怖い顔で吐き捨てた。




「その痛みはエレーナさんの痛みだよ、アホお兄。――お兄はね、いい加減、自分の痛みに対して鈍感すぎなんだよ」




 自分の痛みに鈍感――? その言葉に意味がわからんと思ったその瞬間、じわじわと視界の端から世界が暗くなってきて、紋次郎は気絶の泥沼に引きずり込まれていった。




◆◆◆




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