第37話過去回想戦

 バサッ、と音がしたような気がした。


 ギラリと光る銀色の光が艶やかな黒髪を挟み込み、一息に力が加わる。


 それと同時に、本人が何年もかけて伸ばし、丹念に丹念にケアしていたはずの黒髪が――呆気なく命を奪われた。


 豊かな房だった黒髪が断ち切られ、重力によって地面にこぼれ落ち、地面に散らばった。


 その瞬間、ざっくりと髪を切られた少女は悲鳴を上げ、刻一刻と散らされていく髪の毛を、地面にへたり込んでかき集めようとする。


 それを見ていた数人の男たち――いずれも制服を着崩し、如何にも不良と言えそうな外見の学生たち――が、一斉に下卑た声で笑った。




 「自分」は、それをまるで凍りついたかのように目の当たりにする他なかった。




 天国に行ってしまった母さんが、常々綺麗だと褒めていた黒髪。


 本人もそのことを誇りに思い、ずっと宝物にしていた黒髪。


 彼女の夢だったアイドル、その夢を掴むきっかけになった黒髪。


 家族の――家族の絆そのものだった、ツインテールの黒髪。




 その黒髪が――自分の見ている前で、呆気なく命を奪われた。




 それを理解した瞬間、頭の中で、何かが引きちぎれる音がした。




 人間としての理性が一瞬で蒸発し、気がつけば「自分」は物陰から這い出し、気が狂ったかのような咆哮を上げて男たちに襲いかかっていた。


 ぎょっと振り返った大柄の腕に――「自分」は委細構わず掴みかかるや、大きく足を踏み込み、渾身の力で投げ飛ばしていた。


 これが一体、人間の膂力が為し得ることであろうか。小石のように虚空を舞った大柄が十メートル近くも空を飛び、近くにあった電柱に激突した。


 メリメリ……という不気味な音を立て、電柱が根本から傾いだ。投げ飛ばされて電柱に激突した男は一撃で失神しており、その顔中の穴という穴から鮮血がどくどくと流れ落ちるのを見て、残りの連中が激しく怯えた。


 次に狙い定めたのは、隣りにいて固まっている金髪のニキビ面だ。「自分」はその汚らしい金髪を掴み上げるや、まるでお辞儀を強制するかのように頭を引き下げ、顔面を己の右膝に向かって叩きつけた。


 グワシャッ、という音がして、一撃で金髪の鼻頭が潰れた。それにも構わず、三度、四度、五度……と、顔面を陥没させる勢いで何度も何度も膝頭に顔面を叩きつけると、男たちが悲鳴を上げて逃げ出した。


 誰一人、この場から無傷で逃がすつもりはなかった。


 「自分」は地面を蹴って一番小柄な男に飛びかかり、引きずり倒して地面に顔を叩き付けた。ひぃぃ、と涙声で悲鳴を上げた小柄に向かい、「自分」は全く容赦のない右拳を振り下ろした。


 硬い者同士が激突する音が連続し、小柄の顔半分が二度と盛り上がらないぐらいに、すっかりと陥没した。血まみれの顔に唾を吐きかけて顔をあげると、ワックスで髪を盛り上げた男が、いつの間にか随分遠くに逃げていた。


 刹那、「自分」は左右に視線を振った。そして近くにあった交通標識を両腕で抱えると、一息に力を入れた。メリッ、という感覚がして、アスファルトがめくれ上がり、土台のコンクリートの部分が地面の下から現れた。


 「自分」はそれを両手で持ち上げるや――裂帛の怒声とともに、逃げてゆく男の背中めがけて投げつけた。


 凄まじい勢いで空中を飛んだコンクリートの重石が、強烈な音と共に背中に激突する。吹き飛んだ先にあった路地の壁とコンクリート塊に挟まれ、ペキッ、という、骨が砕ける音がここまで聞こえたようだった。


 これで四人。「自分」は地面にへたり込んでいる赤髪を見下ろした。


 妹の黒髪を切り落とした張本人である赤髪は――完全に戦意を喪失していた。地面に尻を押し付け、血の気を失った顔で「自分」を見上げている。その視線は明確に命乞いをする視線だったが――今の「自分」には、少しでも容赦してやる気持ちなど、欠片も残っていなかった。


 ニヤ……と我知らず唇を歪ませると、赤髪がだらだらと涙を流して泣き出した。二、三度、痙攣したかのようにガタガタと震えた赤髪が、地面を這って逃げ出そうとする。


 「自分」はその右足首に狙いを定めて――真上から思い切り蹴り潰した。


 うぎゃあっ! という、凄まじい悲鳴が赤髪の喉から迸った。砕かれた足首を抱え、身を捩る赤髪の左足首を、「自分」は再び蹴りつけた。何か繊細なものが押し潰される感触が足の裏を伝わって、足首の骨が完全に壊れたことを「自分」に理解させる。これで赤髪は立って逃げることができなくなった。


 赤髪が、怪物を見る目で「自分」を見上げた。




 お願いです、殺さないで下さい……。




 はっきりとした命乞いの言葉を、「自分」は嗤った。


 そのまま、がら空きになった赤髪の右手を掴み、ゆっくりと、恐怖を刷り込むかのように、右足と地面で挟み込んだ。


 赤髪の顔が一層引き攣った。これから「自分」が何をしようとしているのか理解したらしい。そのことに莫大な愉悦を覚えながら、「自分」はゆっくりと、赤髪の手首を掴んだ両腕に力を入れていった。


 足の裏と地面とに挟まれ、曲がらない方向に伸ばされた赤髪の指が、どんどん軋んでゆく。想像を絶する激痛に、赤髪は気が狂ったかのような悲鳴を上げて身を捩り、感電したように痙攣する。それと同時に赤髪の股間から迸る勢いで液体が漏れ、ズボンを黒く濡らしていく。


 一層力を込めると、メリメリ……という感触が発して、遂に赤髪の指が全て壊れた。あらぬ方向に曲がった己の指を見て、痛い、痛いよ、と、赤髪は子どものように泣きじゃくった。


 右手首を押さえ、地面に四つん這いになった赤髪の尻を蹴った「自分」は、蒼白になっている赤髪を何の慈悲も感じないままに見下ろした。




 ふと――「自分」の中に、残虐な気持ちが湧いた。


 そうだ、こいつの一部を毟り取って、妹に渡してやろう。


 そうすれば、穢されてしまった妹だって、少しは慰められる。


 宝物だった妹を傷つけた悪魔に、その痛みを思い知らせてやることができる。


 ここで戦死した友たちの分、こいつらに同量の、いや、それ以上の苦痛を与える。


 そうすれば、天国にいる母さんだって、俺のことをよくやったと褒めてくれるだろう。


 この国が、俺たちが味わった苦痛と屈辱、それを今ここで、こいつに理解させてやる。




 やめろ、やめろ、誰もそんなことを望んじゃいない、兵士として恥ずかしくないのか――!


 「自分」の中の誰かが、そう絶叫したのに、「自分」は止まらない。


 そのまま、蒼白の顔のまま視線を飛ばしている赤髪の口に、「自分」は手を突っ込んだ。




 メリッ、という音と共に、赤髪の身体が激しく痙攣した。


 そう、その時の自分の指に握られていたのは――生きた人間からむしり取った、血まみれの歯だった。




◆◆◆




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