第9話学食混雑戦

 その日の昼、紋次郎たちが通う高校の学食は史上空前の人出に湧いていた。


 その理由はもちろん、衝撃の美少女転校生エレーナ・ポポロフ。


 調理のおばちゃんたちが悲鳴を上げて厨房の中を走り回る学食は黒山の人だかりで、中でも紋次郎とエレーナが座るテーブルの周囲の混雑ぶりと言ったら、たとえバラク・オバマとヒラリー・クリントンが腕を組んでニューヨークを歩いていてもこうはならないだろうと思わせるほどの人口密度を記録していた。




 紋次郎はぎゅうぎゅうとおしくらまんじゅうの要領で密着してくる、名前も知らない同窓生の鼻息を不快に思いながらカツカレーを口に運んでいた。




「あら、最近ロシアでもヤポーニャから来たラーメン屋は人気なのだけど、これはなんというか、端正な味ね。上手く言えないけれど、こういうのでいいのよ、と思わせる味というか……」




 エレーナが涼し気な顔と声で器用に割り箸を操っていた。それでチュルチュルとラーメンを啜り、指の先で髪を掻き上げ、口元を拭う度に、ごくっ、という生唾を飲み込む音が同時に聞こえて不気味だった。


 男連中は血眼になっており、エレーナの一挙手一投足をまるでポルノ映画を観るように監視している。


 隣りにいると物凄く不愉快な視線に紋次郎が顔をしかめていると――今まで雷に打たれたかのように押し黙っていた男子連中の中、縮こまっていた藤村巽が、おずおずと口を開いた。




「え、エレーナさん――ラーメン好きなの?」




 まさしくモテない男が合コンに来ました、というような口調と表情で藤村巽が問うた。んむぅ、とエレーナは指先で唇を拭ってから、蕩けるような微笑みとともに答えた。




「好きというか――今、好きになっちゃった♥」




 瞬間、エレーナを中心とし、学食内の四方数里に雷鳴が轟いたかのようだった。


 好きになっちゃった♥ ただ一言で学食内は春爛漫の様相を呈し、桜は咲き、鳥は鳴き、種は芽吹き、天使が喜びの歌を歌い、迦陵頻伽が空を飛ぶ。凄まじいまでの美少女の「好き♥」はたった一言で世の中の法則さえも好き勝手に捻じ曲げてしまうのだということを――紋次郎は初めて知ったのだった。




「あーあ、ヤポーニャの料理は美味しいのね。ラーメンは初めて食べたけど……これほど美味しいんだったら何種類か頼んで少しずつ食べればよかったわね。失敗しちゃったわ」




 その一言に、男子連中が瞬時目配せし合った。




「え、エレーナさん、俺のハンバーグ定食ちょっと味見する?」




 思わず、というように、男子学生の一人がフォークで欠片に千切ったハンバーグを差し出した。それを見て、パッとエレーナが笑顔になった。




「あら、くれるの? なら有り難くいただくわ――あむっ♥」




 エレーナは動物園のキリンが草を食むように、何の遠慮もなくフォークに喰らいついた。


 あむっ♥ その甘い鼻声が聞こえた瞬間、天は轟き、地は揺れ、水が逆巻き、暗雲が立ち込め、阿弥陀如来が紫雲に乗って来迎し、地上に降臨した聖母マリアが強い強い輝きを放った。


 この凄まじい美少女に餌付け、そこからの間接キッス――ハンバーグを施した男子学生がぶるぶると震える手で己が握ったフォークの刃先を見つめ、そこからおもむろにハンバーグを食べようとするのを――まるでテロリストからナイフを奪い取るSPのような手付きで誰かが阻止した。




「あッ――!? な、なんだ突然!! やめろ!! 俺のフォークだぞ!!」

「やかましいこの卑怯者め! そうはさせるか!!」

「ふざけんなこの野郎! ぶっ殺すぞテメー!!」

「おォいいぜやれるもんならやってみろよォ! 上等だコラァ!!」

「おい、コイツからフォーク奪え! 奪って遠くに捨てろ!!」

「よ、よし! 奪ったぞ――! それじゃあいただきます――」

「あ、コイツも同じクチだ! 奪え奪え! 二度と争いの起きないようにフォークを便所に捨てるんだ!!」




 なんだかなぁ……紋次郎はギャーギャーとくんずほぐれつする男どもを見て、妙な気持ちになった。とんでもない美少女というものは、ただそこにいて、ラーメンなぞをズルズル啜っているだけでこれほどまでに周囲を狂わせるのだ。


 昨日まで和気藹々としてランチをしていた連中が、今や殺し合いを始めかねないこの殺伐さ――曽祖父の父が経験した二百三高地の激戦とはかくなるものだったのだろうか、などと考えて、紋次郎はカツカレー最後のカツを口に運ぼうとした。




「あら、モンジロー君の食べているソレ、美味しそうね。よかったら私にも分けてくれない?」




 ――瞬間、エレーナの不穏な発言により、周囲が一瞬でキューバ危機の緊張に包まれた。


 思わず顔をこわばらせ、「はい?」とエレーナを見つめると、エレーナは何でそんな表情をするんだろうというあどけない顔でニコニコと重ねた。




「なんだかボルシチのようなものがライスにかかってて美味しそうね。一口食べてみたいわ。あなたのスプーンでいいから食べさせてくれない?」




 そう言って、エレーナは髪を耳元に掻き上げ、あーん、と口を開けた。


 瞬時、周囲を見渡すと、男子連中が人殺しの目としか言えない目で紋次郎を見つめていた。


 さぁお前はどうするんだ? 明確にそう語っている数十の視線に睨まれて、紋次郎は毒のように苦い唾をゴクリと飲み込んだ。




「じゃ、じゃあ、はい――」




 紋次郎が震える手でエレーナの口元に一匙のカツカレーを運ぶと――あむっ、と声を発して、エレーナがスプーンに喰らいついた。それからモグモグと咀嚼し、まるで至上の珍味を味わったかのように目を輝かせた。どうやら、カツカレーがお気に召したらしい。




 喜んでもらえたのは嬉しいが――さて、問題はこのスプーンである。




 このまま何事もなく食事を再開した瞬間、間違いなく紋次郎は袋叩きの目に遭うだろう。


 まぁ紋次郎にとっては十人ぐらいに囲まれた程度なら全く問題なくノせるのだが、いくらなんでも同級生たちを容赦なくぶっとばせるはずがない。かと言ってこのスプーンを交換するのは、たとえ相手がエレーナでなくとも、物凄く失礼に感じる。




 となれば――やるしかない。


 ごく自然な動作でこのスプーンを床に落とし、事故を装って新しいスプーンを使うのだ。


 それも周りの男子連中が奪い合いを始めぬよう、すぐには拾えない椅子の真下に――。




 食べないの? と、エレーナが不思議そうに紋次郎を見つめてきた。


 ごくっ、と、再び唾を飲み込み、いよいよ紋次郎がスプーンを取り落そうとした、その瞬間――。




『いえーっ! みんなー! 復帰! し・た・ぞ~!!』




 不意に――学食の隅っこで昼のワイドショーを流していたテレビから聞き覚えのある声が聞こえ――紋次郎はくわっと目を見開いた。



◆◆◆



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