第20話Подруга煩悶戦
ハァ、とエレーナはため息をつきながら、悶々とテーブルに向かっていた。
先程、紋次郎から無理を言って借り受けたブレザーには少量であったが血がついている。
それは液体洗剤とガーゼを使って少しずつ落とすことが出来たが、根気のいる作業ではあった。
黙々と作業を繰り返して、既に数十分。赤黒く染み付いた血痕はあらかた薄くなってきていた。
ふと――エレーナはその薄くなった染みに、指先で触れてみた。
触れながら――百年前の日露戦争の際の「不死身の船坂」を思い浮かべる。
彼も、このように血みどろになりながら、落ちない血汚れの上に更に血を上書きして戦っていたに違いなかった。
全ては祖国のため、栄光の勝利のために、何度打ち倒されようとも決して諦めなかった。
諦めることなく戦い続け、遂にあの大国ロシアから勝利をもぎ取ってみせたのだ。
そして、百年後の今は、私一人のために……。
そう考えると、胸がドキドキして顔が熱くなり、甘い痺れが全身を満たした。
それは、ずっと憧れていた「不死身の船坂」に対してだけのもの、ではなかった。
自分は明確に、あの青年にも――船坂紋次郎に対しても、何か他の人間には感じたことのない、特別な感情を感じている。
大の大人二人を一撃で半殺しにしておきながら、怯えるエレーナにこのブレザーをそっと掛けてくれた優しさ。
あれほど情けないアイドルオタクでありながら、荷物を満載したトラックをも素手で持ち上げる猛者。
その気になればその道に進み、何人でも血祭りに上げることが出来るだろうに、そんな人間が普通の人間でしかないクラスメイトに混じって平穏に暮らしている現実。
それが――それぞれの国や民族が憎しみ合い、殺し合っていた百年前との違いなのか、それとも、平和国家を標榜するこの国の民に共通する平和ボケなのかまではわからない。
わからないのだけれど――今朝に見た、男二人をぶちのめして振り返った時の、あの白く冷たく光る眼光――あの眼光だけは、とにかく本物のそれとしか言いようがなかった。
ひと睨みされただけで魂を滅却されそうな程に恐ろしい、あれは獰猛な猛獣そのものの目だった。
それを思い出すだけで、あの目に睨まれた時に全身を駆け抜けた――不思議な痺れが再び全身に走り、胸が苦しくなった。
もし、と胸の内が苦しいまま、エレーナは考える。
紋次郎がいつか、あの、あの目で、あの怪力で、自分を押し倒してきたりしてきたら――。
どくんどくん、と、心臓が一層高鳴った。
エレーナはガーゼを脇に退け、少しためらった後――眼の前のブレザーに頬を押し付けてみた。
その瞬間、朝と同じ香りが、先程まで隣りにいたはずの男の香りが、まだ消え残ってエレーナの鼻に届いた。
これが、これが不死身の怪物の匂い――それだけで、全身の奥底から熱がどんどん湧き出してきて、血流に乗って隅々まで行き渡り、この匂いと溶け合ってしまいたくなるような甘い官能が全身を満たした。
「Подруга……」
エレーナはそこで、先程紋次郎に言わせてしまった単語を口に出した。口に出しただけで――顔が破裂しそうな恥ずかしさと、そしてロシア語のことなど何も知らないのだろう紋次郎を騙してそう言わせたような罪悪感が、同時に去来した。
Подруга……それは女性同士で言った場合は、単に「友達」を意味する単語。
だが、男性が女性を指して言う場合は――その意味は、その間柄はもっと親密さを増す。
Подругаとはつまり――日本語で言うところの、「彼女」、という意味になる。
いつか、私も誰かに恋をする、誰かと一緒に生きたいと願うことがあったとして。
よりにもよって、それが「不死身の船坂」の子孫であったとしたら。
もしもあの男、船坂紋次郎が、自分を偽りなく「Подруга」と呼んでくれる未来があるなら――。
そこまで考えてしまって――エレーナはため息を吐いた。
なんて、そんな事が有り得る訳がない。いや、有り得ていい訳がない。
自分と日本人は、やはり本質的に敵同士である宿命なのだ。
そう、敵――。エレーナの中に流れる半分の血、日本人の血は――穢れた男の血、憎むべき
百年前の戦いで培われた日本への尊敬と畏敬を決定的に破壊した、忌むべき男の血が、自分にも流れている。
自分が恋焦がれて止まない英雄だった「不死身の船坂」への英雄譚を地に墜としたあの男――あの男の血が己の中に流れる限り、自分が彼の側に居続けることなど、許されていいはずがなかった。
それでも、それでも、今だけは。
今だけは、もう少しこのままでも――。
エレーナはブレザーに頬を押し付けたまま、仮初めでしかない日常をもう少しこのまま暮らしてみようと決意していた。
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