第52話恋

 紋次郎の身体が、エレーナに抱き留められたまま、力を失った。


 慌ててエレーナと紋次郎に駆け寄り、紋次郎の身体を支えてやり、地面に寝かせてやる。




「ふう……なにはともあれ、よかった。お兄が止まってくれて……」




 思わず出たその一言に、エレーナが頷いた。


 頷いて、まるで寝入ってしまったかのように穏やかな表情を浮かべている紋次郎の顔を、エレーナは手で擦った。




「コトブキちゃん。今の……モンジローじゃなかった。不死身のフナサカ、だったわよね?」

「そう、だと思います。でもよかった、ようやく、ようやく終わったんだ……」

「ようやく終わった、って――?」




 エレーナに不思議そうに尋ねられ、寿は頷いた。




「信じられないかも、なんですけどね。船坂家の人間は、同じ夢を何度も見るんです。気がついたら日本とは全然違う、雪が積もった小高い丘が見える場所にいて、自分はそこの頂上を目指して走り出す――そのうちに周りから砲撃音がして、地面が爆発して……」




 エレーナが目を丸くした。




「そのうち、自分は夢の中で、人を殺すんです。しかもひとりじゃない。何人も何人も、日本人じゃない、青い目の人たちを、撃ったり、刺したり、咬み付いたりして……」

「そ、それって――!」

「えぇ。かつて私たちの先祖が体験した記憶……二〇三高地、なんでしょうね。その夢の中で、自分はロソマハって呼ばれてるから……エレーナさんから言葉の意味を聞いて確信しましたよ」




 まさか、というような言葉を、寿が苦い顔で肯定した。




「小さい頃は、自分がなんでそんな夢を見るのかわからなかった。小さい頃は見る度に怖くて泣いてました。でも、あれは絶対にただの夢じゃない。そのうち成長するにつれて確信していったんです。多分、それはお兄も一緒――」




 なんだそれは、まるで呪いじゃないか。


 絶句する他ないらしいエレーナに、寿は大きな大きなため息をついた。




「多分、不死身の船坂は――ずっとああやって私たちの中で戦い続けてたと思うんです。生きて日本に帰ってきた後も、魂はずっと戦場にいた――。だから、ずっとずっと、一人ぼっちで、何度も、何十年何百年も、終わらない日露戦争を戦っていた……」




 そうそれはエレーナの一族の中では、それは既に歴史の一部だったのだろう。


 一方、船坂の一族では、それは歴史になってなどいない。


 現在進行系の呪いそのものだったのだ。




 しゅん、とエレーナが項垂れた。




「ごめんなさい、コトブキちゃん……私、そんなこと知らないで、一方的にあなたたちを宿敵だなんだと……」

「いいえ。むしろお礼を言うのはこっちの方ですよ、エレーナさん」




 明るい声で言うと、え? とエレーナが寿を見つめた。




「なにせ、エレーナさんがたった今、その戦争を終わらせてくれましたから。戦場に残っていた船坂佐吉の魂は、やっと日本に、自分の家に帰れた。何もかも、宿敵であったエレーナさんのおかげです。もう二度と、あの時の夢を見ないって、自分でもわかるんです」




 そう、それは確信だった。


 この美しいロシアから来た女性が、戦場に縛り付けられた船坂佐吉の魂を救った。


 そうでなければ、あの状態になったお兄が止まることなんてありえない。


 それを知っているからこそ、船坂佐吉は救われたと断言できるのだ。




「そう言えばエレーナさん、アレクセイって人がどうとか言ってましたよね? 友達だったって……」




 寿の言葉に、エレーナは制服の胸ポケットに手を伸ばし、パスケースを取り出した。


 パスケースを開き、中にあった一枚の古ぼけた写真を示されて――寿は大きく目を見開いた。




 写真に写っていたのは、壮麗な軍装に身を包んだ青年と、婚礼衣装らしい和装に着飾った女性の姿だった。


 えっ? と、有り得ないものを見せられた気分で、寿は声を上げた。




「私と――お兄?」

「いいえ違うわ。この人が、不死身のフナサカ――フナサカ・サキチよ」




 まさか、というように寿はエレーナを見つめた。


 エレーナは白い頬を緩ませ、まるで宝物を見つめるかのように写真を見つめた。




「フナサカ・サキチはね、私たちの宿敵であるだけじゃない。戦場で動けなくなっていた私の祖父の祖父、アレクセイを助けてくれたの。そうして、あなたたちの住所が書かれたこの写真をくれた。だから私はあなたたちの下を尋ねることが出来た――」




 小さい頃から何度も何度も見返したのだろう写真を、エレーナは慈愛の目で見つめている。




「だからモンジローに初めて出会った時、すぐに確信できた。この人が不死身のフナサカの子孫なんだって。だって――この写真に写っていた人と、そっくり同じ目をしていたんだもの。この人が私の先祖を助けてくれた、私たち一族の宿敵であり、恩人なんだって……」




 ああ、と、寿は納得した。


 この目、この表情、この声――。


 どれもが、恋する乙女の表情としか言えない表情だった。




 エレーナはとっくの昔に、恋をしていたんだ。


 写真の中にいる、船坂佐吉という青年に。


 そして日本に来た今は、先祖と同じように自分を救ってくれた、自分の兄に――。




 何だか、全てが繋がった気がした。


 まるで恋する乙女そのものの表情で写真を見つめているエレーナに気づかれないよう、寿は紋次郎を見つめた。




 はぁ、自分も男だったらなぁ。


 この人はやっぱり、お兄には勿体ないぐらいの人だよ。


 こんなに可愛くて、こんなに慈悲深くて、こんなに優しくて。


 こんなに一途に会ったこともない人のことを想い続けられる、素敵な人なんだから。




「エレーナさん。お兄のこと、好きでしょ?」




 もう何も誤魔化さずに尋ねてみると、エレーナは少しだけ頬を赤く染めて視線を落とし、随分迷ったような素振りを見せてから――。




「う――らぶりー、らぶりーてるてる……」




 ――全く、本当に無粋なんだから。


 寿が内心舌打ちをしたくなったのと同時に、紋次郎が呻き声を上げて顔を歪めた。




「らぶりーてるてる……ちゅっちゅ……すきすきだーりん、らぶてるてる……」




 それが聞こえたと同時に、エレーナは慌てたように紋次郎の顔を両手で挟み込み、その額を撫で始めた。




「モンジロー、モンジロー! 大丈夫!? どこか怪我してない!? 私がわかる!? ねぇ――!」

「らぶりーてるてる、ちゅっちゅ……」

「な、なんで意識ないのに『La☆La☆Age』のらぶりーこーる歌ってるの!? 夢の中でもライブに行ってるの!? どういうことよ!? ねぇちょっと……!」




 やっぱり、好きじゃん。


 気づかれないように笑ってから、寿は座ったまま失神しているカッター男に歩み寄り、その尻ポケットからくたくたの財布を抜き取り、身分証明証を取り出した。


 へぇ、コイツ、こんなフケ顔してるのに二十歳前なんだ。


 財布の中にあったおカネはさっきの迷惑料としてもらっておこう。


 男の財布の中にあった札を全て抜き取り、それ以外は見つからないように遠くに投げ捨ててから、寿はスマホで事務所に電話した。




「あ、もしもし、寿ですけど。はい。えーちょっと、出禁にしてほしい奴がおりまして。……はい、今ちょっとストーカー的な行為されまして。ファンクラブに名前あるなら永久追放でお願いします。名前控えてもらっていいですか? 名前は……」




◆◆◆




もうすぐ完結します。


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