第55話(最終話)第二次日露戦争
「あ、あの、エレーナさん」
数日後の下校の最中、紋次郎は頃合いを見て、隣にいたエレーナに話を切り出した。
エレーナは不思議そうな顔で紋次郎の顔を見上げた。
その不思議な色の瞳に見つめられるだけで、紋次郎は何度も何度も練習したはずの言葉を飲み込みたくなってしまう。
だが、言うのだ。
数日前、エレーナがかけてくれた言葉、その返事を。
「あのさ、エレーナさん。数日前はなんか、カッコ悪いことになっちゃったけど――覚えてるか? 俺がエレーナさんと、宿敵以外のものになりたいか、って話さ」
その言葉に、エレーナが少し驚いたように口を薄く開き――。
それから、自分が言った言葉の内容に恥じ入ってしまったかのように顔を俯けた。
でも、紋次郎の方には覚悟が決まっていた。
俺は、この人と、宿敵以外のものになりたいのだと。
最初こそ、ただ単なる成り行きで出会い、そして先祖同士の因縁から関わり合いになっただけの人だったけれど。
君は、俺に絆創膏を貼ってくれた。
君は、俺をカッコよかったと言ってくれた。
柔道という人生の希望を失った俺を慰めてくれた。
君は、こんな鈍感で、酷いことを言った俺を叱ってくれた。
そして――そんな俺を赦してくれもした。
俺は、君と繰り広げる、この第二次日露戦争の日々が――楽しくて、愛おしくて、しょうがないんだ。
おっかなびっくり、紋次郎はエレーナの肩に手を置いた。
エレーナも、そうした紋次郎の動作を、嫌がらずに受け入れてくれた。
瞬時、息を吸って――紋次郎は決然と言った。
「俺、エレーナさんと――宿敵じゃない人間になりたいです」
エレーナが、潤んだ目で紋次郎を見つめた。
ばくばくばくばく、とうるさい心臓の鼓動にも構わず、紋次郎は続けた。
「俺、もう我慢はしたくない。エレーナさんとは宿敵同士ってだけじゃイヤだ。もっと、もっと、何があっても絶対に離れられない関係でいたい。たとえ戦争が起こったって、たとえ地球が滅んだって、最後まで手を握り合っていられる――そんな風な関係に、俺はなりたいんだ」
エレーナの白い肌が、その言葉によって真っ赤になった。
紋次郎は右手をエレーナの肩から離し、エレーナの頬に、ゆっくりと触れた。
柔らかで、清らかで、そして、凄く華奢で。
俺なんかが触れてしまったら壊してしまいそうな人だけれど。
この人が自分以外の誰かに壊されそうになることがあるのならば、守ってやりたい。
たとえ戦争が起ころうとも、自分以外の誰にも、指一本この人に触れさせたくない。
もう二度と、一週間前のように離れ離れにはなりたくなかった。
「俺、エレーナさんを、エレーナさんの一番近くで守っていたい――だ、ダメ、かな?」
ぐすっ、と、エレーナが真っ赤になった鼻を鳴らして俯いた。
よし、これで、言うべきことは言った。
後はエレーナの返答を待つだけ。
そう、思った瞬間だった。
急にエレーナが顔を上げ、紋次郎の左肩に右手で触れた。
そのまま、ぐっ……と力が入ったと思った、その途端。
今まで意識していなかった足元にエレーナの足が絡まり――紋次郎はバランスを崩した。
「うぇっ……!?」
間抜けな声を上げた、その途端。
紋次郎は通学路の路上に、仰向けでひっくり返った。
「え? え? えぇ……!?」
痛くはなかったけれど、え、なにこれ?
突然のことに紋次郎が目を白黒させた、その途端。
あははははははっ! という、エレーナの笑い声が通学路に響き渡った。
「やっと一本! とうとう『不死身の船坂』をひっくり返してやった! これで第二次日露戦争はポポロフ家の勝利ね! 百二十年ぶりに雪辱を晴らしたわ!! やったぁ!!」
そう大声で言って、エレーナは泣き笑いの表情のまま、紋次郎の前にしゃがみ込んだ。
そして、呆然としている紋次郎の顔を至近距離から覗き込んだ後――。
――急に、紋次郎の額に温かく、湿った感覚が発した。
額にキスされた――そのことが脳みそに染み込んでくると、紋次郎の血圧が急上昇した。
思わず思春期が暴走しそうになり、口を開け閉めするやら足をばたつかせるやら、フルスロットルでパニックを起こしている紋次郎を、エレーナは楽しそうに見下ろした。
「私を守る? バカなことを言わないで。あなたなんかに守られるほど、ポポロフ家の人間はひ弱じゃないの」
紋次郎はエレーナの言うことを、無言で聞いていた。
エレーナは紋次郎を至近距離から見下ろしたまま言った。
「私みたいな人間に不意を突かれてひっくり返る、そんなあなたが私を守る? 無茶を言っちゃダメよ、モンジロー。私はそんなカッコイイ表情をしてもらいたいわけじゃない。――あなたにはもっともっと、情けない表情をしてほしいの」
エレーナが何を言いたいのか、紋次郎にはよくわからなかった。
紋次郎が戸惑っていると、「ねぇ、モンジロー」と呼びかけたエレーナが、瞬時、目を伏せた。
「多分、離婚した私の父も、かつて私の母に、今あなたが言ってくれたような事を言ったんだと思う。でも、結果的に二人は別れてしまった。友人、恋人、夫婦――そんな関係は永遠じゃない。いつかは終わりが来てしまうもの――」
エレーナは、ゆっくりと、自分の中の想いを慎重に言葉にしているようだった。
「私、これでも寝る間も惜しんで考えたのよ。そう、それは、結びついたから終りが来るってことなんだって。なら、永遠に誰とも結びつかない方がいい……父と母が別れた後の私は、幼ないなりにそんな青臭いことも考えた」
そう、家族が一人、いなくなってしまう悲しみと辛さ。
それは母を失っている紋次郎にもよくわかっている。
結びついたから終りが来る――それは、紋次郎にもよくわかった。
最初からなにもなければ、人間はきっと悩まないし悲しまない。
人間は失った痛みこそを一番痛いと思うものだから。
「でもね、モンジロー。友人や夫婦や恋人――それが終わってしまうのは、交わったからなの。けれど――それらがずっと交わることのない平行線なら、どう?」
平行線。紋次郎ははっとした。
何かを察した紋次郎に、エレーナの笑みが深くなった。
「そう、宿敵同士なら。決して立場や主張が交わることがない平行線なら、決して交わらないからこそ――ずっとすぐ近くにいられるんじゃないかって、私、そう思ったの」
ずっと、すぐ近くに。
その言葉には、紋次郎が今まで経験したことのないような、途方もない幸せと嬉しさが込められていた。
その瞬間、ざあっと風が吹き――。
エレーナの美しい銀髪が、陽光を受けて美しく風になびいた。
「モンジロー、ごめんね。やっぱり私、あなたとはずっと宿敵同士でいたい。ずっと交わらないけれど、交わらないからこそ、あなたのすぐ側に、すぐ近くに、ずっといる存在になりたい。そういう関係じゃ――あなたはイヤ?」
あまりの幸福感、あまりの美しさに――思わず、涙が出そうになった。
顔ごと目を伏せて、紋次郎は地面に手をついて、必死に涙をこらえた。
「――泣いてるの? モンジロー」
「泣いてない、泣くか、泣けるかよ。こんな、こんなに嬉しいのに、泣いてなんかいられるか――」
愛しさが、爆発してしまいそうだった。
自分の力で何も考えずにエレーナを抱き締めたら、きっとエレーナは壊れてしまうだろう。
それでも――それでも、この目にいる前の美しい人に、どうしても触れたかった。
紋次郎は必死に涙をこらえながら、立ち上がった。
「エレーナさん」
「何?」
「手、繋ごう」
「ん――」
ゆっくりと、頬を桜色に染めながら、エレーナが頷いた。
自分の手がこの人を壊してしまわないよう、紋次郎はそっと、その手を握った。
「エレーナさん」
「なに?」
「俺たち、宿敵だよな?」
「うん」
「ずっとずっと、俺たちは宿敵だ」
「うん」
「宿敵らしく、いろんなところに行こうな」
「うん」
「宿敵の俺が、どこでも連れてくよ。エレーナさんに知ってほしいんだ、エレーナさんのもうひとつの故郷は、凄く、凄く綺麗な場所なんだって――」
紋次郎が振り返って笑いかけると、エレーナの顔に満面の笑みが浮かんだ――。
◆
百二十年前、遙か海の向こうで戦があった。
まだ生まれたての小国だった日本は、当時の歴史の様々な偶然や必然から、当時世界を併呑せんとしていた歴史古き大国・ロシア帝国と戦争をした。
果たして始まった戦争は、ロシア帝国圧倒的有利の下馬評を覆し、日本は連戦連勝を続け、遂には世界最強と呼ばれたバルチック艦隊をも壊滅に追い込み、勝利を収めた。
その、酸鼻極まる戦争の果てに――小さな小さな一輪の花が、ここに咲いた。
かたや「ロマノフの帝剣」と称された貴族の末裔――。
かたや「不死身の船坂」と恐れられた怪物の子孫――。
彼と彼女、総参戦人数たった二人という第二次日露戦争が、ここに一旦の終わりを、そして、また新たな戦局を迎えようとしていた。
青春の興廃、この一戦にあり。
各員一層奮励努力し、恋をせよ――。
《了》
◆◆◆
これにて完結です。
実に15万字の長い戦いとなりました。
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