第41話従姉妹説教戦②

 突然のその言葉に、紋次郎の心臓がぎゅっと収縮した。




「血塗れの不良どもを笑いながらいたぶる君を見て、寿は笑顔だったか? 君にありがとうとお礼を言ったか? 違うだろう。もうやめてくれと、泣きながら君に縋ったんじゃないのか」




 お兄、お願い、もうやめて、もういいから――。




 耳の奥底にこびりついた妹の涙声が、紋次郎の脳裏にはっきりと蘇った。


 それと同時に、砕けた自分の拳の痛みと、生きた人間から毟り取った血塗れの歯の色艶を思い出して、目の前が暗くなり、気分が悪くなる。




「君はあの時、かろうじて人殺しにならずに済んだ。それは寿が止めてくれたからであって、君一人なら確実に君は人殺しになっていた。あの事件によって傷ついたのは君だけだったか? 違うだろう。それが証拠に、あの時以来、寿は二度とあの髪型に戻ろうとしない」

「う――!」

「君はあの一件以来、柔道もやめてしまった。学校まで変わってあのことを忘れようとした。それでも悪夢はついて回る。今も君の背後にべったりと張り付いて、決して忘れさせてはくれない……そうだろう?」

「ね、姉ちゃん、や、やめ――!」



 

 人間の悲鳴、こびりついた血糊の臭い、人間を破壊する感触――。


 その全てが鮮やかに蘇ってきて、ぐらぐらと視界が揺れ始めた。


 


 そうだ、あの時、自分は明確に、人殺しになりかけた。


 それだけではない。人を殴り飛ばし、潰し、砕き、破壊する行為に、はっきりと愉悦を覚えた。




 蘇ってきた悪夢の記憶が、急激に全身を冷やした。思わず頭を抱えて身を捩り、全身でその言葉を拒否すると、堀山茜が冷たい声で言った。




「ほらな、船坂紋次郎。君は自分が思っているほどには強くはない。そして強いということは、必ずしも幸せなことではない――理解したか?」




 紋次郎を追い詰めるかのような声が、すっかりと平衡を失った世界に響き渡る。




「君は確かに傷が早く治る特異体質かもしれない。だが、心の傷はその限りではない。君はただの十七歳の男子高校生で、間違っても不死身の英雄などではない。体の傷ではない、心の傷を抉られただけで、ただ普通にしていることすら難しくなる――」




 だらだらと、冷や汗がしとどに顔を濡らし始めた。


 酸素が上手く肺に入ってゆかず、酸欠で頭が揺れ始める。




 はっ、はっ――! と、躍起になって浅い呼吸を繰り返していると――不意に、堀山茜が近づいてきて、紋次郎をそっと抱き締めた。




「落ち着け、モン。もう全て終わったことだ――ほら、ゆっくり息をしろ」




 母さんの匂い――紋次郎にはそう思えた。


 優しく頭を撫でられると、それと同時に幾分か気分がよくなり始めた。


 灰色一色だった世界にもゆっくりと色が戻り始め、頭のぐらぐらも落ち着いてきた。




「落ち着いたか?」

「う、うん、一応……」

「そうか。辛いことを思い出させてすまなかった。けれど紋次郎、理解しただろう?」




 堀山茜が再び紋次郎の頭を撫でた。




「君は超人じゃない、普通の男の子だ。トラックを素手で止めることが出来ても、ナイフで刺された傷が一日で治ろうとも、確実に傷ついている部分がある」




 短くなったタバコを挟んだ指先が、とん、と紋次郎の胸を突いた。




「それは心だ。誰だって心の傷はそう簡単に治るもんじゃない。この先もずっとこんなことをし続ければ、他人の代わりに傷つき続けることを選べば、お前は遠からず心が壊れてしまう――エレーナが言いたかったこと、寿が言いたかったこと、それはそんな意味なんだと、先生は思う」




 紋次郎は何も言えずに俯くほかなかった。


 堀山茜は携帯灰皿にタバコを押し付けてポケットに仕舞った。




「いいか紋次郎、繰り返しになるが、君は決して一人ではない、傷つき続ける君を嘆く者が周りにはいくらでもいるんだ。今後その選択をするときは、その前に必ずその人たちのことを考えろ。それでもそうする必要があると、君がそう判断するのなら――先生は君を止めない」




 紋次郎は無言で頷いた。




「だが、決して自分のことをほっとこうなどとは思うなよ。他人の代わりに自分が傷つけばいい、そんな発想は金輪際捨てろ。そうでないと――お前は何度でも何度でもエレーナに殴られことになるぞ?」




 ニカッ、という感じで、堀山茜が笑った。


 嫌味な笑いである。紋次郎は恨みがましく堀山茜を睨みつけた。




「姉ちゃん、やっぱり個人的に完全に楽しんでるだろ……ったく、それが教師の浮かべる顔かよ」

「そんな顔をするな。何度も言うが、先生はお前たちを素敵だと思うぞ? 百二十年前は宿敵同士、しかし今は友達以上恋人未満になりかけてるとは――全く、羨ましくて敵わんわ。私も父方の先祖でも洗って宿敵を探しに行くかな――」

「そんな壮大なことしないで、もっと地道に婚活パーティとか行きなよ。姉ちゃん酒乱だからくれぐれも男の前では飲み散らかすなよ」

「やかましい、私にオムツ替えてもらったこともあるガキが言うようになったじゃないか。――ほら、もう理解しただろう。エレーナにはちゃんと謝れるな?」




 その言葉に、紋次郎はハッキリと頷いた。


 よかった、と心の底から安心したような表情を浮かべ、堀山茜は白衣のポケットからメビウスを取り出して口に咥えた。




「わかったなら、誠心誠意エレーナに謝罪しろ。そうすれば君たちはまた元通り宿敵に戻れるだろう。頑張るんだぞ」

「はい。……えっと、あの」

「なんだ、奥歯にモノが挟まったような顔と声で」

「あの――ありがとうございます、堀山先生」




 紋次郎ははっきりと、担任の教師に接する声で礼を述べ、頭を下げた。




「あんな大問題起こして凰凛にいられなくなった俺をこの学校に引き取ってくれたこと、まだお礼も言ってなかったし。エレーナさんに殴られた理由も――俺一人じゃ死ぬまでわかんなかったかもだし」

「よせよ、いとこの仲じゃないか。それに私は個人的にというだけではなく、世界史の教師としても、お前らの存在が素敵だと思うから肩入れしただけさ」

「は――」




 世界史の教師として? どういう意味だ。


 紋次郎が戸惑うと、堀山茜が百円ライターでメビウスに火を付け、美味そうに一服した。




「なぁ紋次郎、日本という国とロシアという国は、付き合い始めて何年になると思う?」

「は――?」

「なんのひっかけ質問でもない、本当にただのクイズだ。さて、何年になると思う?」

「そ、そりゃ、一応北海道より北はロシアなわけだし、千年ぐらいは普通に――」

「ブブーッ、残念。正解はたったの三百年だよ」




 三百年。人間個人としては長い時間だが、国同士だと一瞬としか言えないその年月の短さに、紋次郎は少し驚いた。




「驚くだろう? 遥かなるロシアの大地にロマノフ王朝が興り、コサックを中心としたシベリア探検隊が諸部族を屈服させながら東へ東へと進み、ベーリング海峡を発見し、樺太に至り、千島列島を発見したのが大体西暦千七百年頃――地果て海尽きるところまで来た彼らは、そのすぐ南に日本という国があり、日本人という人々が住んでいるのを、そこで初めて確認したんだ」




 千七百年。歴史の成績は良くはないが、その時期が江戸時代で、鎖国の真っ只中だったことぐらいは紋次郎も知っている。


 つまり、幕末になって鎖国政策が破られるまで、ロシア人は日本人と接触できなかったことになるのだろうか。




「大地の果てに日本という国があることを知ったロシア人たちはな、シベリア交易の終着点として、日本人と付き合いたがったんだ。だが折り悪く日本は鎖国政策の真っ只中、ロシア側からのラブコールは江戸幕府によって頑迷な程に断られ続けた」




 堀山茜はそこで再び煙を吸い込んだ。




「明治時代になってもロシアと日本が仲良くなることはなかった。日清戦争の後、清国の権益を巡って、ロシアを中心とした三国干渉が起こると、まだ弱小国家に過ぎなかった日本はその要求を飲まざるを得なかった。日本人の対露感情は悪化するばかりさ。その後、君たちの運命を変えた日露戦争が起こり、ロシア革命、シベリア出兵、ソ連の成立、そして太平洋戦争に於けるソ連の約束破りの対日参戦、シベリア抑留、冷戦……」




 指折り数えて、堀山茜は携帯灰皿に灰を落とした。




「悲しいことにな紋次郎、日本人の対露感情は、歴史上よかったことがないんだ。江戸時代は鎖国体制を破壊しかねない厄介な隣人として、明治維新後は目の上のたんこぶである列強国として。戦後は領土係争国、そして不倶戴天の社会主義国家として――お隣さんなのにな。日本は二千年以上朝鮮半島と付き合っているが、二回か三回しか戦争をしたことがない。だがやっとこさ三百年にしかならない日露史では、我々はもう二回も激突している」




 そうか、そういう言い方もできるのか。


 紋次郎が意外な歴史的事実に唸ると、堀山茜が笑った。




「それなのに――民間レベルではお前らみたいなのがいるって、なんだか可笑しいじゃないか。確かに日露両国はかつて血で血を洗う戦争を繰り広げた。けれどその酸鼻極まる地獄の片隅に、お前らみたいに先祖にかこつけてちゃっかり仲良くなってしまう連中もいる。歴史というのはそこが面白い。人間という生き物はきっかけさえあれば、簡単に敵にも味方にもなってしまう。人間もまだ捨てたもんじゃないのかもしれない、お前らを見てると、そんな気持ちになるんだよな――」




 フフフ、と、堀山茜は心底可笑しそうに笑った。


 元々周りの男が放っておくはずがないほど、整った顔立ちの女性である。その笑みには途方もないほどの色気と、紋次郎にはまだわからない様々な人生経験が感じられた。




「さぁ、もう行け。あまり女性を待たせるもんじゃないぞ。世界史の授業は終わりだ」




 堀山茜は再び煙を吸い込み、こちらを見ないままに、細く長く煙を吹いた。




 紋次郎は、もう一度だけ、深々と頭を下げた。


 この人がいとこで、そして担任であって本当によかったと心から感謝して、紋次郎は視聴覚室を出ていった。




◆◆◆



完結させる、完結させるんだ……。


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