第44話最終決戦前哨戦③
このまま諦めてくれれば、と願っていた寿の思いは、どうやら通じなかったようだ。
まるで怯えさせるのを楽しむかのように、男はよたよたとした足取りで確実に背後をついてくる。
徒歩で数分間の距離が永遠にも思われた後――寿は建設現場に入り込んだ。
やれるか? と己に問い、寿は覚悟を決めて振り返った。
「……なんでついてくるんですか?」
最後通牒のつもりで男に言うと、男は明らかに正気の人間ではない顔で、再び笑った。
「諦めてくれたの? 大丈夫、僕はそんなに酷いことはしないからさぁ」
「どう考えてもその言葉、信用できませんよね? これ以上ついてくるなら警察に通報しますよ」
「だからそんな酷いことはしないよ。ちょっとあみるちゃんについての今までの態度を反省してくれて、あみるちゃんにセンターを譲ってくれれば僕はそれでいいからさ……」
「黙れよ、クズ野郎っ!!」
寿がアイドルのものではない声で痛罵すると、男の顔から笑みが消えた。
結成以来、どんな大舞台や苦難も共に乗り越えてきた仲間との絆を、それこそ踏みにじるような男の妄想に、寿の中で怒りが燃えた。
「勝手に私たちの仲を妄想すんじゃねーよ、気持ち悪いんだよ! 私だけじゃない、『La☆La☆Age』のみんながイジメや嫌がらせでのし上がろうとするわけない! そんないい加減な関係じゃねーんだよ!」
あまり刺激するべきではない、という理性を圧倒する怒りのまま、寿は顔を歪めて男を睨みつけた。
「あみるちゃん、こんなヤツがファンなんて可哀想……! 私なんかに構ってないで家に引きこもってろ、このクズ!」
思わず真正面から罵声を浴びせかけると、男は一瞬、放心した後――急に、青褪める程に激高した。
「おいブス! 訂正しろよ……! 僕は世界で一番あみるちゃんのことが好きなんだぞ! 僕がファンで可哀想ってなんだよ!? ふざけんじゃねぇぞ!!」
「可哀想可哀想可哀想! あみるちゃんが可哀想だ! こんなヤツに好かれてるなんて、世界一可哀想! お前の応援なんかあみるちゃんの迷惑にしかなんねーよ! ララエジのファンなんかやめちまえ!」
「うるさいうるさいうるさい! おいブス! あんまり調子乗るなよ、こっちは本気で来てんだからな……!」
急に、男がポケットに手を突っ込み、あるものを取り出した。
それを見た瞬間、寿は顔を引きつらせた。
参った、思った以上にこの男、頭の中身がぶっ飛んでいるらしい。
手に握られていたのは大ぶりのカッターナイフだった。
「僕がやれないとでも思ってんだろ……! 今の言葉を訂正しろっ! でないとどうなるかわかってんだろうな……!」
「どうするってんだよ、このクズ! そんな刃物プラプラ振り回して、怪我すんのはテメーだろうが!!」
「こっ、このブス……! お前まで僕を馬鹿にするのか、ブスのくせにっ!!」
男が濁った目を血走らせて歩み寄ってきて、寿のツインテールの、その左側を掴んだ。
「学校の連中も家の奴らも、僕を何も出来ないゴミムシだと思いやがって! 見てろ、僕だって本気になればやれるんだぞ……! 『La☆La☆Age』のKoto☆を二度とステージに立てないようにすることだって……!!」
瞬間、男がぐいとツインテールの房を掴み、カチカチカチカチ、という音と共に伸ばされたカッターナイフの刃が黒髪の房に押し当てられる。
どうやら、自分は数年前と同じことを、これからされるらしい。
「やめてよ……!」と寿が体を捻った、その瞬間だった。
「寿!」
不意に――どこかから己の名前を呼ぶ声が聞こえて、寿ははっと顔を上げた。
男がはっと振り返った先に――暴行の現場を目の当たりにし、呆然と立ち尽くしている兄の姿と、その背後に息も絶え絶えに駆け寄ってきた、銀髪の少女の姿があった。
瞬間、寿は己の失敗を悟った。
「お、お兄……!?」
寿が思わず声を上げた、その瞬間だった。
呆然と放心している兄の口の端から、つっ――と、一筋の涎が滴り落ちる。
その後も、数秒間、まるで電源が停止したように硬直した兄の。
その、兄の両目が――凄まじい勢いで紅潮していくのが見えた。
◆◆◆
完結させる、完結させるんだ……。
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