第34話

一度気持ちが溢れてしまうと、もう止まらなかった。



 気持ちと一緒に涙が溢れて、栗田の服が濡れていく。



 それを気にして離れそうとすると、栗田は更に力を込めて沙耶香を抱き締めた。


☆☆☆


 沙耶香と栗田が始めて出会ったのは中学時代のことだった。



 当然その頃から異性に人気のあった沙耶香だが、「本当に好きな相手とでなければ付き合わない」という、当たり前と言えば当たり前だが、今時珍しい心得を持っていたため、ガードは固かった。



 その固さゆえに、同性愛だの男性恐怖症だのという噂がたえなかったある日、偶然、本当に偶然、栗田に出会ってしまった。



 それは、学校帰りの女の子たちの溜まり場にもなっていた喫茶店での出来事。


 学校からほど近くにある割りに、先生たちの目は行き届いていない場所。



 帰りにちょっと喫茶店で一休み。なんて中学生にとってはとてもオシャレで魅力的だった。



 もちろん、限られたお小遣いの中で毎日毎日行けれるわけがない。



 行くのは月に3回か4回ほどだった。



 紺色のセーラー服に赤色のリボン。同じ紺の生地に、濃いグリーンのチェックのスカート。



 同じ制服姿の女の子たちがひしめき合った店内で、栗田はたった一人で席に座っていた。



 男が一人、隅っこのテーブルで文庫本を開いている姿は異質で、珍しいものを見るように女子中学生たちは声を潜めてささやきあった。



 しかし、栗田はそんな事など気にも留めず、一心に活字を目で追っていたのだ。



「何、読んでるの?」



 その時の栗田が、何となく今の自分を重なり合って、沙耶香は話かけていた。



 驚いたように顔を上げる栗田。



 少し太めの体に、特徴のない顔。



 一目ぼれなんて、滅多にされないだろうし、女の子にそこまで好かれるとも思えないような外見だった。



けれど……「ねぇ、何読んでるの?」



 この人のことを知りたいと思った。



 誰とも付き合わないからと、勝手に変なレッテルを貼られている沙耶香にとって、その時の栗田は『同じ』だったのだ。



 一言でいえば、変なヤツ。



「マクベス……」



 栗田はポツリとそう返事をした。



 その言葉に沙耶香はフワリと薔薇のような笑顔を見せて「シェイクスピアね」と言った。



「君、シェイクスピアを知ってるの?」



「当たり前でしょ? どれだけ有名な人物だと思ってるのよ」



 呆れたように肩をすくめる沙耶香に、栗田は嬉しそうに微笑んだ。



「僕の周りに物語を読むヤツなんてほとんどいないんだ。


ましてやシェイクスピアなんて『チケット売ってるのか?』なんて言われて終るよ」



「ヒドイ。それって『チケットぴあ』じゃない」



 と、顔をしかめてから、二人は思わず噴出した。


 シェイクスピアがチケットぴあだなんて、本当に信じられないほど無知な連中だ。



 けれど、それがどうにもおかしかった。



 それがキッカケで、月に一度や二度の喫茶店デートがはじまった。



 デートだなんて大げさかもしれない。



 約束もせずに喫茶店に行き、出合ったときのように偶然に二人が顔をあわせる。



 その度に栗田は新しい文庫を読んでいて、物語の話に夢中になった。



 栗田が読む本はシェイクスピアに限らず、メアリ・シェリーのフランケンシュタインだとか、夏目漱石の坊ちゃんだとか、どこかで聞いたことのある名作たちだった。



 正直、中学を卒業するとあえなくなる。



 と、二人は心の中で思っていた。



 話はするが、名前も知らない。制服でお互いがどこの学校かはわかっても、知っているのはそれだけだった。



 高校の入学式、栗田を見つけたときには口から心臓が飛び出すかと思うほどに驚いた。



 それは栗田も同様で、クラスまで一緒だとなると、『運命』という乙女チックな言葉を信じたくなった。


☆☆☆


 そして、今に至る。



 降り始めた雨は次第に強くなり、今ではフロントガラスを叩く雨音でクラシック音楽が聞こえなくなっていた。



 けれど、そんなことどうでもよかった。



 桜が満開の小道じゃなくてもいい。



 雲ひとつない晴天のもとじゃなくてもいい。



 素敵な音楽なんかなくてもいい。



 綺麗な赤ワインも(まだ飲めないけれど)いらない。



 洋画に出てくるようなダンスも踊れなくてもいい。



 むしろ、足を踏みつけられたって文句は言わない。

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