第4話
☆☆☆
消毒液の臭いがキツすぎて、紗耶香は喉を押さえた。
真っ白というより、薄汚れてクリーム色に近くなった廊下を、母親と一緒に、看護士について歩く。
蛍光灯がチカチカと点滅しながら《霊安室》と書かれたプレートをほのかに浮かび上がらせていた。
その扉の前で立ち止まり、大きく深呼吸を繰り返す。
大丈夫、大丈夫。
そう、心の中でおまじないのように繰り返し唱える。
ここに来る前に、背の高いモヤシのような刑事から、事情はすべて聞いていた。
昌代はただ死んだのではない。
殺されたのだと。
真っ暗な山奥で、絞殺された。
検死官からの話では、発見された時には死後数時間が経過していたらしい。
昌代の体には、抵抗した時の傷痕が数多く残っていたという。
きっと、山に連れ込まれてからも抵抗を続けていたから、小枝や小石などでひどく傷ついたのだろう。
「紗耶香、無理しなくていいのよ?
お母さん、一人で見てくるから」
その言葉に、紗耶香は強く首を振った。
「昌代は、私のお姉ちゃんだから」
そう言うと、覚悟を決め、重たく冷たい扉を開いた――。
霊安室の中はヒヤリと冷たくて、薄暗かった。
二人の後から部屋に入った看護士が、無言のまま明かりをつける。
パッと照らし出された部屋で、真ん中にポツリと置かれた白いベッドが、輝くほど眩しく見えた。
その、輝くベッドの上にイトコの昌代は眠っている。
心だけが遠く遠く離れた世界へ行ってしまい、入れ物だけになったその体。
主を失った肉体は、ただ腐り、くち果てるのを待つだけだ。
「お姉ちゃん……」
そっとベッドへ近づいていく。
その後ろ姿が、はかなく散りゆく黒薔薇に見えた。
紗耶香は、昌代の顔にかけられた白い布に、手をかける。
しかし、その右手がどうしても震えてしまって、『布を取る』という、ただそれだけの行為ができない。
この布を取ってしまうと……昌代の顔を見てしまうと……認めるしかなくなってしまう。
もうこの世にはいないのだと、現実を突き付けられてしまう。
それが、こわかった。
その時だった、後ろからヌッと手が伸びてきたかと思うと、昌代の顔にかけられた布がパッと剥ぎ取られたのだ。
思わず、小さな悲鳴をあげて目をそらす。
といっても、死体は綺麗に化粧までされて、昌代の口元は微かな笑みさえ見せていた。
それが作られたものだと分かっていても、苦痛などない幸せな死だったのかと思ってしまいそうだ。
「あなた、誰?」
由佳子の声にハッと我に返って振り返る。
そこには、めくり取られた布を左手に持った、長身の男が立っていた。
紗耶香はその男の顔を見ると、
「あっ!!」
と、霊安室に響き渡るような大きな声を上げた。
ごく最近、見たことのある顔。
専門学校で、『邪魔なんだよ』と冷たく言いはなってきた、その男だったのだ。
「な……なんでこんな所にいるの!?」
驚いて目を見開く紗耶香にたいし、男は細い目を更に細めて冷たい視線を向けてきた。
「幸也君! 勝手に入っちゃ困るよ」
そう言いながら慌てて霊安室に入ってきたのは、事件の内容を説明してくれた刑事。
たしか、藤堂と名乗っていたか。
藤堂は、幸也の腕をつかんで霊安室から引っ張り出そうとする。
「その方、誰なんです? 昌代ちゃんのお友達?」
由佳子が、落ち着いた口調で藤堂へ聞いた。
その質問に、藤堂は困ったように眉をよせ、
「それが……」
と、口ごもる。
「父親がこの事件を担当してるんです」
幸也と呼ばれたその青年は、義務的な口調で説明をはじめた。
「俺は、この事件の手伝うように頼まれました」
「手伝う……?」
どう見ても10代後半の幸也の言葉に、由佳子はあからさまに疑いの目を向けた。
これは殺人事件だ。ゲームではない。
こんな若者に何ができる? そもそも、警察がそんなことを頼むとも思えない。
その視線を直に受け止めながら
「事件自体はもちろん父親が動きます。俺は、事件の見えない部分の捜査を頼まれたんですよ。
だからそんなに心配しなくていい」
と言った。
「見えない部分?」
今度は、紗耶香が小首を傾げてきいた。
紗耶香のこの仕種でクラッときた男性陣は数知れない。
しかし、幸也の視線は相変わらず冷たいままで、
「どんな可能性も見逃すわけにはいかないんだよ」
と、なぜだか不機嫌そうに言い放つと、ドカドカとわざとらしく足音を立てながら霊安室を出て行ってしまった。
「ちょっと幸也君! あ、どうもすみませんでした」
最後に藤堂が由佳子に頭を下げ、自分より年下の幸也の後を追い掛けて行った。
二人が慌ただしく出て行った扉を見つめ、紗耶香は目をパチクリさせたのだった……。
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