第26話
時計の針が6時を指し、玄関のチャイムが鳴る。
『絶対に、ちゃんと相手を確認してから鍵を開けろ』
そう冬我に念を押されていた奈々子。
しかし、自分の誕生日で舞い上がっていた奈々子は、それをすっかり忘れていた。
冬我が帰ってきた!
そう思った奈々子は、何の疑いもなく扉を開けて……。
目の前の見知らぬ男に言葉を失った。
顔を覆面で隠し、その穴からぼったりとした一重の目が覗く。
叫び声を上げる暇も、なかった……。
ただ、すべての明かりが消えるその瞬間に、奈々子の目には画面のひび割れた自分の携帯電話がうつった……。
☆☆☆
俺が奈々子の死体を見つけたのは、夜の6時半頃だった。
その日は奈々子の誕生日でな、少しばかり喜ばせてやろうと思って、バースデーケーキを買いによってたんだ。
貧乏だが、なにかしてやりてぇと思った。
ケーキなんざ買ったことがねぇから、散々迷ったんだ。
なにを選べばいいのか全然わからねぇからよ。
ショーケースの中に並ぶケーキを凝視する俺に、女の店員はニコニコと愛想のいい笑顔で、
「彼女にですか?」
なんて聞いてきて……。
その、ほんの数十分後。
俺が選んだケーキは床の上でグチャグチャに潰れたよ。
部屋のカギが開いてたから、入る前におかしいとは思ったんだ。
そんな俺の目の前に、倒れた奈々子と広がる血だまりが飛び込んできた。
なにがどうなってんのか、頭が真っ白になっちまって全然わからねぇんだ。
しばらくの間、その場から動く事もできなかったと思う……。
気が付けば、ケーキが手から滑り落ちて、跡形もなく消えた……。
☆☆☆
冬我の話を聞いた沙耶香はキュッと唇をかんで俯いた。
思い出される、霊安室での昌代の姿。
一瞬足元がふらつき、木製の手すりにつかまった。
その時、前を歩いていた幸也から手が差し伸べられた。
顔を上げると、相変わらずキツイ目元の無表情な顔がこちらを向いている。
「ありがとう」
と呟くように言うと、沙耶香は素直にその手を握った。
最初に感じたとおり、細くて綺麗で、だけどしっかりとした強さを持っているように感じる。
とても、暖かい。
チラリと振り返ってそんな二人を見たネコは、微かに口元を上げて笑った。
「ネコと出合ったのは、その後だ」
冬我は歩きながら話を続けた。
森の中は涼しく、歩いていてもさほど苦痛にはならない。
どこからかの鳥の鳴き声と水の音を聞きながら、4人はどこかにあるであろう、出口を目指した。
☆☆☆
俺は、その直後の記憶を失った。
あまりにショックすぎて、空白の時間ができちまったんだ。
今でも、その時のことは何一つ思い出せやしない。
……それから、気が付くと俺は車を飛ばしていた。
涙でグチャグチャに濡れながら、わけもわからず走り回ってたんだ。
奈々子の遺体を、後部座席に寝かせてな……。
自分でも、充分に異常な行為だってことはよぉくわかってたよ。
あの時、そのまま病院へ連れて行っていたらもしかしたら助かっていたかもしれないんだからな。
けれど、俺は病院へは行かなかった。
無我夢中で走り回って走り回って……。
気が付くと、辺りは真暗になっていた。
車のデジタル時計を見ると、夜中の2時が過ぎたときだった。
家に帰って、奈々子の遺体を見つけてから7時間以上が経過してたんだ。
がむしゃらに走り回ったおかげで、周りは見たことのない建物ばかり。
道路標識を見ても、聞いたことのない地名がズラリと並んで、俺はしばらくの間車の中で放心状態に陥ったよ。
これからどうすりゃぁいい?
後ろからは血なまぐさい匂いが漂ってくるし、まるで俺が自分で奈々子を殺しちまったような錯覚に襲われた。
俺は、運転席から冷たくなった奈々子の体にそっと触れたんだ。
触れた体は完全に死後硬直していて、俺はその時はじめて奈々子が死んだのだと痛感した。
名も知らない土地で、大好きな女の死体と一緒にいた俺は、後先のことなんて考えちゃいなかった。
今こうしている間にも俺のアパートには警察がきて、俺が犯人として指名手配されているかもしれねぇのにな……。
そんなこと構わず、死んじまおうと思ったんだよ。
誰が犯人だろうが関係ねぇ。
奈々子はもういないんだからな。
犯人が出てきたところで、俺はすべてを失ったようなものだった。
俺はアクセルを踏み込み、真暗な山道へ車を走らせた……。
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